2024.12.22

2024年11月30日『ハイゼ家 百年 / Heimat is a Space in Time』渋谷哲也さんトークショーレポ

11月30日(土)から12月6日(金)までレイト&モーニングショーにて上映しました『ハイゼ家 百年 / Heimat is a Space in Time』。上映初日11/30(土)の上映後に、渋谷哲也さん(ドイツ映画研究 日本大学文理学部教授)をお迎えしてトークショーを開催しました。『ハイゼ家百年』における東ドイツの記憶、ドキュメンタリスト・ハイゼの独創的な手法、引用されるハイナー・ミュラーとの関係など、たっぷりご説明いただきました。貴重なお話をどうぞご一読ください!

皆さんこんばんは、渋谷です。トーマス・ハイゼ監督が突然亡くなったという知らせが、今年5月30日に届きました。『ハイゼ家 百年 / Heimat is a Space in Time』は2021年に日本で上映されましたが、実はそれ以前にも監督はたくさんドキュメンタリーを撮っていて、東ドイツ時代にもいろんな作品を撮ってらっしゃるんですね。いよいよ日本でも紹介して監督にも来日していただこうとしていたところでした。今年のベルリン国際映画祭の審査員をなさって、新作の準備もされていたそうなんですが、突然病が襲って68歳という若さで亡くなられてしまいました。これから、今までちゃんとできなかったハイゼ監督の足跡を辿って紹介していくという大きな宿題をもらってしまったと思っています。

ところで、来週(12/7~12/13)早稲田松竹で上映するライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは西ドイツの監督です。彼は(体制に)批判的だった人でもあるんですが、やはり西側の持つ自由の中での社会批判や、フランスのヌーヴェルヴァーグやアメリカ映画を自由に使いながら、しかもドイツ人に対する批判も入れていた。自由というのは、やっぱりどこか底意地が悪いんですね。『ハイゼ家 百年』の中で、ハイゼ監督のお母さんロージーの西側の恋人ウドが結構うざい手紙を送っていたと思いますけど(笑)、あの傲慢さです。西側の自由と言いながら、実は西側にも自由なんてないんだよという批判がある。単純な娯楽ばかり描くのでなく、社会や歴史への批判が必ず入る。重要な試みですし、それを映画的な喜び、面白い試みの中に交えていくのが西側のニュージャーマンシネマのファスビンダーやヴィム・ヴェンダースの特徴だったんですが、そこからするとトーマス・ハイゼ監督のスタイルは、社会の見方、歴史の見方も根本的に違うのがお分かりになると思います。

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厳しい監視社会の中で自分の表現をどうするか、本当に真剣に向き合うこと。ハイゼ監督は1955年東ドイツの生まれですから、当時すでに第二次世界大戦が終わって10年経っていた。映画の前半にあったようなナチス時代や戦争の混乱が一通り収まっている頃に生まれたわけです。すでに東西にドイツが分断されて冷戦真っ只中でした。特に1950年代は、当時東ドイツのヴァルター・ウルブリヒトという第一書記が東側社会主義を信奉するガチガチの路線だったものですから、社会主義の教条的な映画がどんどん作られていた頃なんです。この時代は東西の国境はありましたが、まだ壁はありませんでしたから、一般市民も行き来はできました。ハイゼ監督が6歳のとき、1961年に東側のドイツ民主共和国が壁を作って国境を8月に閉鎖してしまいます。完全にドイツの東と西は別々の路線を行くという時代の始まりですね。ハイゼ家と監督はこうした社会の変化の時期に生まれ育っているわけです。

西ドイツは学問や職業の自由や社会保障もちゃんとあるんですが、東側はスパイ国家というだけでなくそもそも貧しいので、若者や国民に自由な選択肢が少なくなります。貧しい中で社会主義をみんなで支えようという思想だった。ハイゼ監督はちゃんと東側の兵役もこなしていましたよね。西側は軍に入りたくなかったら社会奉仕活動という別の道もあったんですが、東ドイツは問答無用で男性は全員入隊するわけです。国家がすべて仕切っている社会の中では、当然ながらインディペンデントで生きる可能性はほとんどない。当時東ドイツで映画を作る仕事をしようとしたら、コンラート・ヴォルフという東ドイツの名監督の名前を冠した映画大学で学ぶんですが、もしそこで撮った映画が体制にとってよろしくないとなったら公開できなくなってしまいます。

ハイゼ監督の生き様というのは、最初から体制に対してかなり斜に構えた、距離をとったものだったと言えます。子供の頃から青年時代、映画人を目指した時もそうした思想の自由の余地を持って生きてきました。この映画の非常に重要なところは、ハイゼ家のお父さんお母さんおじいちゃんがいる家で育ったら、そういう風に育つのは当然だろうとわかる点だと思います。思想信条を全面的に出すのではなく、研究者であったり哲学者であったりという個人のスタンスをできるだけ自分のものにし、体制に関して徹底的に批判的に振る舞うという生き方で、なおかつ、個人の生活というのはちゃんと謳歌する。禁欲的なお坊さんみたいな生き方じゃないんですよね。映画も非常にミニマルでそぎ落とした作り方をしていますけれど、一つ一つモチーフとなる映像やカメラの動きには官能的な美しさがある。叙情的で豊かで、でも批判的なところは絶対緩めないという特徴がちゃんとはっきり表れていると思います。

ハイゼ監督はそういう闘いを映画学校時代からやっていて、東ドイツの公の映画の路線で行けば自分の撮りたい映画を作れないということで、大学を自ら辞めてしまいました。それ以前には、東ドイツの製作配給会社DEFA(デーファ)(*1)に勤めて、助監督などしていました。なので就職して映画人になるという道にも自分から背を向けたわけです。結局フリーで映像を作ったり、演劇に関わったり、東ドイツの芸術アカデミーの学生になったりという生活をしていました。そういう意味では本当に自由人ですね。東ドイツとしては珍しく自由に考え活動するアーティストの生き方をした人です。

ハイゼ監督の作品で、東ドイツ時代にベルリンの役所や警察を撮った1時間くらいのドキュメンタリーがあります。国家事業として国内の様子を映像で撮りためていくための監督として抜擢されたんです。見せるのではなく素材として保管しておいて、何十年後に、東ドイツは当時こんな風だったという証拠として残す映画です。将来に対して責任を生むような映像作品に、無頼のハイゼ監督が選ばれたというのもすごいんですが(笑)。

その映像作品にもはっきりと批判的な態度はあって、『ハイゼ家 百年』と同じく現実を記録するスタイルで、そこに写っている人々の抱えている問題が浮き彫りになります。一般人が見たら「東ドイツの役所って本当に息苦しいな」とか「東ドイツの警察って本当に矛盾した中で活動しているんだな」というのがあからさまに見えるわけです。東ドイツの公的な映画がやっていたのは、できるだけポジティブな社会を見せるといった明らかなプロパガンダです。虚偽の思想と意識を映画で伝える行為を公にやっていた。もちろん映画人はその建前に抵抗しながら創作活動をしていたわけですが、その外側にいたハイゼ監督は自由なので、観客にプロパガンダを提示しなきゃいけない葛藤をせずに済んだ人でもあります。その自由さが、『ハイゼ家 百年』にもはっきり表れているんだと思います。思想的な様々な問題とどう向き合うかについて慎重かつきわめて率直で、教条的じゃないんですね。

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東ドイツは管理国家だったので、国家保安局というスパイ組織があり、国民の大多数が間接的な協力者でした。だから東ドイツがなくなったとき、実はたくさんの人が関わっていたという証拠がどんどん出てきます。『ハイゼ家 百年』の最後に出てきた作家クリスタ・ヴォルフもそれまで東ドイツに批判的な作家として非常に高く評価されていたのに、彼女もまた間接的な民間人協力者の1人だったという証拠が出てしまいました。母ロージーの手紙で語られていたように、結局クリスタ・ヴォルフはドイツ統一後、新作をほとんど書けないまま亡くなってしまいます。

そして実はロージーも若いとき同様に体制協力をさせられる目に遭っていたと重ねて語られます。それぐらい東ドイツの社会状況はシビアだった。また、ロージーは若い頃にスパイ協力者にさせられたけれど、その後大学教授だった夫ヴォルフガングが、国家に批判的な芸術家を大学が処罰する動きに賛成しなかったせいで自分のポストを失ってしまった。彼は組織の中で筋金入りの反骨の人だったんです。この国の中でどう生きるかを考えていた父親と、西側に恋人がいた母親。そういう多面性を備えた人間関係の中で監督は映画を撮ったんだなと思います。

この映画は、東ドイツの歴史などを具体的に知っていないと、一体何が話題になっているのかなかなか見えにくかったですよね。まずおじいさんの代が1914年から始まるということで、戦争が大きなテーマだというのはわかったと思います。第一次世界大戦が始まった時おじいさんは14歳ぐらいであの反戦的な作文を書いている。筋金入りの批判精神に貫かれた家系だなとわかりますよね。その後ナチスの第二次世界大戦のときにハイゼ家がどんな生き方をしたのか描かれる。

再現ドラマにしたり関係者インタビューを見せたり、やろうと思えばできるわけです。でもハイゼ監督は、本当だったら資料室に行ったりして証拠文献や写真を使えるのに、自分で手に入れられる一家の周辺にある素材だけで映画を作った。だから手紙も外から届いたものばかりが引用される。例えばお母さんが西側の恋人にどういう風に返事を書いて送ったのかはわからないわけです。いろいろな省略があり、その間は我々の想像で埋めさせるという、本当に潔く、まさに自分や自分の家族の個人史に徹底して収斂する作り方をしている。

ただ、前半に出てくる、非常に印象的な名前のリストは公的なもので、あれは何月何日に捕まったユダヤ人が強制収容所に送られていく名簿なんですよね。父ハイゼが収集したものかもしれません。リストの後半は、男性には全部イスラエル、女性にはサラとついて、つまりユダヤ人であることを示す記号としてホロコーストのやり方が見えてくる文献でもあるわけです。おばさんやおじいちゃん、おばあちゃんたちハイゼ家の関係者の当事者は赤いラインが引いてある。そういった本当に必要な書類は出てきます。あのリストが流れる中で家族たちの文通の言葉が朗読されて行くと、一人また一人と収容所へ移送されてしまい、日に日に生活が危うくなっていくことが文面にも表れていて、手紙の日付とリストを照らし合わせるとこの人たちがいつ移送されたのかがわかるんですね。最初のうちは半年以上時間が空いているのでまだまだ先かなと思うけれど、だんだん手紙の日付の1週間前、3日前になって、内容も切迫してくる。ハイゼ監督は限られた素材で実にドラマチックに演出している人なんだなと改めて思いました。

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ハイゼ監督は東西ドイツが統一された後、ようやくドキュメンタリー映画監督としていろんな作品を作るようになっていきます。同時に1990年から数年間、映画にも出てきたハイナー・ミュラーという劇作家が劇場監督をしていたベルリーナー・アンサンブル(*2)という東ベルリンの名物劇場だったところで働いて舞台演出もしていました。私は1994年から97年までベルリンに留学していまして、ハイゼ監督を初めて知ったのは、ベルリーナー・アンサンブルでミュラーの過去の戯曲「建設」という労働者と社会主義者のお芝居を演出されたのを見たからなんです。「ハムレットマシーン」以前のハイナー・ミュラーはブレヒトのお芝居みたいに活気がある人間のやり取りを描いていて、そういう戯曲を本当に楽しく生き生きと、労働者演劇風の趣向も取り入れつつ演出している姿を見ました。ドキュメンタリー作家としても自由自在にいろんなものを取り入れていて、やはり演出家として非常に豊かで優れた方だったんだなというのを改めて感じる次第です。

10年ぐらい前に、ハイゼ監督の2008年の『マテリアル』という2時間40分のドキュメンタリーを権利を取って上映したことがあります。『ハイゼ家 百年』のスタイルとはまた違った撮り方で、ドイツの統一以前と以降、つまり1980~90年代、それから2000年にかけて自分の周辺で撮りためた映像を提示して、時代の変化を体験できるというドキュメンタリーです。『ハイゼ家 百年』はどちらかと言えばひとけのない風景が多かったり、詩的な感じがしますが、実は監督自身は、カメラを持って出かけていくと結構修羅場のど真ん中に入る人なんですよ。

例えば1989年のベルリンの壁が崩壊した時は、当然街中の東ドイツの市民たちがデモをしているところをちゃんと映像で撮っているんですね。ドラマチックに旗振ったりしている人たちだけじゃなく、ただ普通に人々がわーっと道を歩いている姿や、政治家たちの喋る言葉に対し共感したり反感を持ったりしている姿など、その空気感や緊張感をずっと撮っているんです。それから壁が崩壊したあと、みんなでシュプレヒコールをして盛り上がっていたそれまでの勢いがちょっと緩むんですね。そういうところまできっちり撮られている。ミュラーが「勝者がいなくて全部負けたものばっかりだ」と映画の中で言っていましたが、ハイゼ監督も、社会の中で普通に生きている決して勝者になれない人々を記録に残してる人なんですよね。

1993年のハイゼ監督の映画で、東ドイツの南の都市・ハレでネオナチに染まった少年たちを撮った『STAU停滞-今から始める』というドキュメンタリーがありまして、ドイツが統一された直後の旧東ドイツに取材に行っています。ネオナチの若者たちは、普段家族と一緒に暮らしていると本当に気のいい子たちなんです。ところがネオナチが集まる酒場に行くと大暴れする。そういう姿を、本当に等身大で全部追いかけている。それからその後、若者たちがどうなったかをあと2本撮っています。

『マテリアル』ではこの映画「停滞」をハレ市の公民館を借りて上映するというイベントが記録されていますが、上映を聞きつけたネオナチの集団が劇場に乱入してくるとんでもないハプニングが起こりました。ハイゼ監督はその様子も自らビデオ撮影しているんです。外から石が投げ込まれたり、血まみれになった若者が出てきたり、こんなにリアリティのある映画ないなっていうぐらい。ネオナチみたいな右翼だけじゃなく、左翼の自警団の若者たちも戦う。若者たちのあり方を全部まんべんなく撮っている。最終的には、上映会をやった一般市民たちが、突然カメラを回しているハイゼ監督に対して「勝手に撮るな」と阻止して終わります。そんなところまで全部記録されていまして、ハイゼ監督はあらゆる政治的な方向に対等に、同じ冷徹な目線で迫っていく人だと示しています。だからこそ『ハイゼ家 百年』のようにいろんな思想的な立場や、良いことも悪いことも間違いも含めて同じ地面の上で語られたのではないでしょうか。

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Q
この映画はすごい電車がいっぱい出てくるんですけど、これはやっぱり収容所へ向かう電車を想起しているのでしょうか。

A
列車の映像はかなり象徴的に撮られているので、ドラマチックな多重構造の演出であるんだろうと思います。例えば、発電の風車の影がぐるぐる回っている感じ。あれって本当にドイツの田舎の風景の典型例ですよね。今のドイツの荒涼たる郊外のイメージに、100年前のドイツのエピソードがかぶるといったような二重三重のイメージは明らかに意図していると思います。だとすると、貨物列車はホロコーストのことがあるので移送されるユダヤ人の姿というのを重ねることもできると思います。ただここで運ばれているのは車で、東西が統一された後西側の資本によって東側がどんどん変わっていくという様を示している。そこにある種の並行関係を読ませるというのはあるかと思います。子供の頃の回想に重なる映像なので古い感じがするんですけど、駅の建物が破壊されてガラスが割れてるというのはやはり統一後の現在の荒れた世相を示しているところがあるんじゃないかと思います。

そういう、歴史の比喩的な読み方というのは、まさにハイナー・ミュラーが戯曲の中でよくやっているんです。またハイゼは東側だけではなく、例えばゴダールやアレクサンダー・クルーゲだったり、特に西側の芸術家の影響を受けているとはっきり語っています。ただ東側的だと思えるのは、労働者を中心に提示している点でしょうか。あんまり政治的なことははっきりと描けないってこともあると思います。こうした描き方の意図を監督に聞いて答えてくれるかどうかわかんないんですけど、映画を見た人が自由にいろいろ読み込んでいっていいんじゃないかなという気がします。

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Q
割れた道路はどこの映像なのかなと気になりました。ドイツってそんなに地震はないですよね。

A
この辺に関しては、ハイゼ監督に聞きたかったですね。東ドイツってお金がないので、第二次世界大戦以降、建物とか道のインフラをほとんど新調できてないんです。西ドイツがアウトバーンや鉄道路線も作っていったのと対照的に、東ドイツは40年の間、戦争の傷跡をそのまま残したような建物がもう随所に残ってたわけですね。多分この映像は、統一された後に再開発で潰しているってところを撮影しに行ったんじゃないかと思われます。

日本もそうですけど、統一後の90年代ってバブル期の最後の頃なんで、その頃までは世界はまさにパクス・アメリカーナ(超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」)のように金持ち国家が世界を全部するだろうと思ってた。ところが地球規模でもっと大変な事が起こるかもしれない、経済以上にに人類の存続に関わるやばい状況というのが現代なので、この映画の中で言ってることは今とは少し違うかもしれません。今のドイツの問題というのは、新しい時代になったのにインフラは全然新しくできないことが大問題になっています。ドイツの鉄道は、時刻通りに走らないので有名な鉄道になっちゃったんです。だから今日映画を見てみると、象徴するものが別の意味で今なお新しいと思いました。それこそ破壊された道路は災害の比喩でもあるかもしれないですけどね。

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*1 DEFA (Deutsche Film Aktiengesellschaft)
1946年から1990年の東ドイツ(ドイツ民主共和国)終焉まで続いた東ドイツの映画製作機関。ポツダム=バーベルスベルクの撮影所を継承し、当初はソヴィエトに統制されていたが、1949年の東ドイツ成立を経て、1953年に国営企業となった。1990年以後、撮影所は民間企業の所有となり、DEFAの映画資産はDEFA財団が管理。(国立映画アーカイブ「DEFA70周年 知られざる東ドイツ映画」より引用)

*2 ベルリーナー・アンサンブル
ベルリンにあるドイツ民主共和国の国立劇場(劇団)。ブレヒトによってベルリンに1949年創設され,その妻である女優ヘレーネ・ワイゲルを中心とした劇団。1954年以降シッフバウアーダムの劇場を本拠とし、特にブレヒト作品の範例的上演で知られる。ハイナー・ミュラーは1990年から晩年の95年まで劇場監督を務めた。

(終)