2016.10.13

【スタッフコラム】ごくごく私的偏愛女優たち by甘利類

その7 国木田アコと『午前中の時間割り』

羽仁進監督『午前中の時間割り』(72)は類例がないほど変わった作品である。ストーリー自体は単純だ。草子と玲子、ふたりの女子高生が夏休みの海岸に気ままな旅行に出た。その過程で8mmカメラを回していたのだが、ある時草子が突然の自死を遂げてしまう。ひとり旅から帰った玲子は、友人と共に現像された8mmフィルムを見ながら草子の死の理由を見つけようとする。

本作が革新的なのは、現在時制のパートはプロの手によりモノクロ35mmで撮影されているのだが、玲子たちと共に観客が見続ける8mmの映像の多くが、実際にキャメラを渡された高校生たちが撮影したものだということだろう。撮影も演技も全くの素人の高校生たちが遊びの延長線上のように撮ってきた8mmのカラー映像は、技術的には粗くとも純粋な映像の喜びに溢れている。現在のパートがモノクロなのもあって、まるで別世界の光景のようだ。

草子役の国木田アコもまた当時17歳の普通の高校生だが、サイレント映画の女優を思わせるエキゾチックな顔立ちと、狂騒的なまでにクルクルと変わる表情から発せられる魔力的なオーラには思わず引きこまれてしまう。陽気におどけて見せたつぎの瞬間にはどこか寂しげな表情に変わり、ハッとするほどの美少女に見える瞬間もあれば、わざと顔を歪めた瞬間も生々しく映り込む。そこには、一見陽気に振舞いながら、些細なことですっぱりと死を選択してしまうような、感受性の鋭さと思春期特有の危うさが覗ける。結局、真相は最後まではっきり明示されないにも関わらず、生前の浮世離れした異貌ゆえに、不可解な草子の死は奇妙なリアリティを獲得している。

故に、本作はいわく言いがたい不穏な感触が観る者を戸惑わせる映画でもある。実験精神と瑞々しい遊び心に溢れたテイストという意味では、ヒティロヴァ『ひなぎく』(66)やリヴェット『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(74)などに負けないくらい魅力的な作品なのに、あまり語られてこなかった要因はそこにあるのかもしれない。

とはいえ、近年ようやくDVD化され、ポツポツと上映されるなど静かに再評価の機運が高まりつつあるようだ。役そのままに、これ一本で彗星のごとく輝いて映画界から消えた国木田アコ。彼女のために捧げられたようなこの異形のフィルムは、これからますます多くのファンを獲得していくことだろう。

(甘利類)