2023.08.29
2023年7月24日『はだかのゆめ』上映記念 甫木元空監督×廣瀬純さんトークショーレポ
去る7月24日(月)、『はだかのゆめ』の上映に合わせ、甫木元空監督と映画批評家の廣瀬純さんによるトークショーが行われました! 平日の夜遅い時間にもかかわらずたくさんのお客様にいらしていただき、大変盛り上がったトークショーとなりました。その一部始終をお届けします!
甫木元:本日はご来場いただきまして誠にありがとうございます。『はだかのゆめ』監督の甫木元空です。よろしくお願いします。
廣瀬:こんばんは。廣瀬純です。よろしくお願いします。僕は映画批評のようなことしか話せませんので、今日は甫木元さんに付き合ってもらいたいと思っています。
甫木元:僕も本当に楽しみにしてきました!
“切り返し”で読み解く『はだかのゆめ』
廣瀬:作品冒頭、列車の走行と音楽が突然断ち切られ、パッとお母さん(唯野未歩子)のショットに変わりますね。『はだかのゆめ』は“切断の映画”だということが、最初から宣言されるわけです。切断は作品のなかでどのように問題になっているのか?
まず、見る主体と見られる対象との切り返しに必ず切断が伴っています。『はだかのゆめ』では、切り返しの関係に置かれた二者のあいだに、計測できないような距離、けっして埋められない無限の隔たりといった意味での切断が必ず入れられています。
また、そもそも、二人の人物が一つの同じショットに一緒に収まるということも、主人公のノロ(青木柚)とおんちゃん(前野健太)の組み合わせを除けば、基本的にはありません。みんなバラバラなわけです。そこから『はだかのゆめ』に固有の緊張が生み出されることになります。ノロとお母さん、ノロとおじいさん(甫木元尊英、監督の実際の祖父)、お母さんとおじいさん、お母さんとおんちゃん、彼らが同一のショットに一緒に収まるという奇跡は起こるのか。お母さんとおじいさんについては、同じ家に住んでいるように見えるだけに、よりいっそうハラハラさせられます。
甫木元:あの家は、僕も劇中の祖父も実際に住んでいる家なんです。米倉(カメラマンの米倉伸監督)とスタッフ全員でロケハンに行ったときに「全く同じ場所にいるのにみんな独り言を言っている、どこかすれ違って共存している」という映画にどうすればできるのか?と話し合ったんです。そこで「ショットをどう切り返していくか」という話になったんですね。
『はるねこ』(2016)の劇場公開のとき、たしか廣瀬さんとプロデューサーの青山真治監督と僕とでトークをしたんですよね。『はるねこ』は、指で拳銃を撃つポーズをして「バンバンバン」って言ってる子供と、主役がその子を呆然と見てる切り返しで終わるんですけど、ずっと一緒にいた二人が切返しによって断絶されるまでの話「あの切り返しに80分一筆書きでたどり着かなければいけない」と青山さんから言われたんです。廣瀬さんも、『はるねこ』は切り返しで世界を切断し、切断した世界で映画が終わると指摘してくださった。今の廣瀬さんのお話を受けて思い出したのが、生と死みたいなテーマは同じでありながら『はるねこ』とは違う切り返しというショットのあり方を『はだかのゆめ』の中でどう作るかというのが、最初から念頭にありました。
廣瀬:同一ショットに収まるかどうかという点で、ノロとおんちゃんの組み合わせは例外をなしています。おじいさんが庭で「池の水が少ない」と呟いているショットには、ノロは入ってきませんが、おんちゃんが森の道路わきの茂みに座っているその次のショットには、ノロはなんの苦労もなく易々と入ってくるわけです。
作品終盤で、ようやくノロはおじいさんと一緒に同じショットに入ります。縁側に二人で座り、おじいさんの話をノロが聞いているシーンです。でも、あのシーンでは、おじいさんはもう「おじいさん」役を演じることをやめてしまっている。甫木元尊英さんと作中人物のノロが同一のショットに収まるわけです。切断がある。作品世界と現実世界という二つの全然違う世界のあいだの切断があるからこそ、二人は同一ショットに収まれるわけです。ノロとおんちゃんが同じショットにいるときには、そうした切断はありません。
甫木元:祖父は今年90歳になるんですが、実際にあの家で90年間暮らしていた生活が反復されているんです。祖父がいつも反復している行為を僕がメモして、撮影現場でやってもらっていました。廣瀬さんのご指摘のように、芝居をしている人と、風景のようにその場所で普段通りの行動を反復している人間というのが同じ画面に入ったらどういう風になるんだろう?というのは思っていたんですが、ただの“風景”ではなく、“自分が演技をしている”ということに自覚的である人間がどう映画に映るのかというのは、撮影していてすごく考えさせられるものがありました。
おんちゃんは、どこか関係性や境界線を飛び越えられる人なんです。お酒で浮き世離れしてしまった飲んだくれの人間が、境界線から逃れて色んなところへ好き勝手に入り込めるっていうのは、カメラマンとも話していました。
廣瀬:おんちゃんに浮世離れを許しているのは、絵面的には、彼が絶えず携えている徳利だと思います。
おんちゃんの場合は徳利ですが、他の人物もそれぞれ特別な道具を持っています。ノロの場合は、何よりもまず、手で作る望遠鏡です。望遠鏡を覗くことでこそ、ノロはさまざまな対象と切断を伴う切り返しに入るわけです。
河原に座ったノロが望遠鏡を覗く作品序盤のシーンでは、まず、カメラ目線でおしっこしている牛との切り返しがあって、次に、おじいさんとの切り返しがあって、さらに、お母さんとの切り返しがある。お母さんも、牛と同じようにこっちを見つめていますが、牛との場合と同様、ノロとお母さんとが互いに見つめ合っているとは言えません。おじいさんとの場合も含めて、望遠鏡によって生み出される切り返しには、絶対的な隔たりがあるわけです。最後に、おんちゃんを捉えた切り返しショットが示されますが、ここでも、おんちゃんの扱いは例外的です。ズームアップがなされ、ノロは次のショットでおんちゃんと一緒の画面に入ります。
ノロにとっての望遠鏡に当たるのは、お母さんの場合は懐中電灯だということになると思いますが、これら二つの道具は似たような働きをしていると言っていいんでしょうか。
甫木元:そうですね。見る/見られるみたいなのは考えていなかったわけではないんですけど、「光を照らす母親と覗いている息子」というのは頭にありました。噛み合うことのない二つの道具を親子が持っていて、それをお互い使うことですれ違っているさまを見せています。
ある意味で、道具はみんな持たされているコスチュームなわけですよね。望遠鏡や懐中電灯という道具に象徴されている人物というわけです。息子であるノロは、母親に渡せなかった紙袋をさらに持つことによって、“遅れてきた人間”だということを表現しています。
廣瀬:“のろま”っていうことですよね。
甫木元:そうです。すべてのことに間に合わない。ある種、死を受け入れることに対しても遅れてしまっているということです。母の家の玄関に紙袋を置こうとすることから始めるシークエンスがありますが、何かを母親に渡すこともできなかったという行為を見せることで、母親が奥にいるであろう場所と切断された世界の中でやっている行為として、ノロを象徴するものになったと思いました。
廣瀬:おんちゃんの徳利は、おんちゃんを“浮世離れ”した存在にする。ノロの望遠鏡も、お母さんの懐中電灯も、彼らが収まっているのとは別のショットを呼び寄せようとするもので、彼らがいまいる場から彼らを引き抜くようなものとなっています。これに対して、おじいさんが持ち出してくる道具、農作業の道具や鰹のたたきを作るためのさまざまな道具は、おじいさんを彼の身を置く環境に有機的に結びつけるものになっていて、とても面白いと思います。
あと、これは道具というよりも「装置」と呼んだほうがよいかもしれませんが、窓の開け閉めも非常に重要ですよね。たとえば、雨降りのシーンで、お母さんとノロとは、作品全体を通じてたった一度だけ、同一のショットに一緒に収まります。しかし、閉められた窓に雨が打ち付けており、それが、室内にいるお母さんと外にいるノロとのあいだの越え難い隔たりになっています。
室内にいるお母さんを屋外から撮ったショットでは基本的に、お母さんは、閉じられた窓越しに捉えられています。しかし、作中で唯一窓が開かれるショットがあります。お母さん自身が窓を開ける。我々観客は「いよいよノロと一緒になんの仕切りもなしに同じショットに収まるのか!」とドキドキさせられるわけですが、そのショットへのノロの到来が文字通り「ノロ」すぎるために、彼がフレイムインしたときにはすでにお母さんは部屋の奥にフレイムアウトしてしまっています。ノロとは、そのようにして絶好のチャンスを逃す人のことであるわけです。
映画の中のデザイン
甫木元:僕、廣瀬さんが新作を評論しているポッドキャスト(Spotify配信中のプログラム「PARAKEET CINEMA CLASS」)がすごく好きなんです。以前、番組で近代の優れた映画というのは、画面がデザインされているっていう話がすごく面白いと思いました。根本的にデザインっていうものを廣瀬さんがどう捉えているのかも含めて、もう少しこのお話が聞きたいです。
廣瀬:小津安二郎にしても、ロベール・ブレッソンにしても、シャンタル・アケルマンにしても、ウェス・アンダーソンにしても、優れた映画監督は、結局のところみんなスタイリッシュな作品を撮っており、画面がデザインし尽くされています。ポール・シュレイダーの『カード・カウンター』(2023)がちょっと前に公開されましたが、彼が「映画の超越的スタイル」と呼んでいるのも要するにデザインのことです。
多くの映画作品では、画面内で見るべきところが決まっています。たとえば画面に人間が登場した場合には、その人間を見るべきで、画面内の他の要素は人間ほどには重要ではないといったように。しかし、小津たちの作品ではそうではありません。人間は、画面全体のデザインのなかにその一部分として取り込まれ、線や面や色彩などといったデザインを構成する他のすべての要素と完全に同じ価値を持つことになるわけです。優れた映画監督とは、画面全体を見るように観客を導くような画面作りや編集ができる監督のこと、画面上のすべての要素を等価なものとして提示できる監督のことにほかなりません。そのための手段の一つが、デザインなのだと思います。皆さんも、結局スタイリッシュな作風の監督が好きなんじゃないですか?
甫木元:(笑)
廣瀬:よく考えてみると、ジャック・タチも、ロベール・ブレッソンもそうだし、本当にみんなデザインの映画監督です。
『はだかのゆめ』でも、デザインあるいは純粋に光学的な画面作りは、極めて重要なものになっていると思います。たとえば、道端の茂みに座ったおんちゃんが「これがお前の父さんの骨だ」と言って小さな容器をノロに見せるショットでは、おんちゃんのわきの大きな徳利からその容器まで同じ形の物体が大きさ順に画面内に横並びになります。父さんの骨が入っているからといって、画面上の他の物体よりも重要なわけではないという等価性の肯定が、デザインによってなされるわけです。
これまで問題にしてきた通り、『はだかのゆめ』での切り返しには容赦のない切断、隔絶が伴っていますが、実のところ、それと同時に、切り返しに置かれた二つのショットは互いに静かに響き合ってもいます。そうした響き合いもまた、たとえば、ノロのいる川の火降り漁の光とお母さんの懐中電灯の光のように、純粋に光学的な次元で作り出されています。
作品冒頭のあの唐突極まりない切断でも、列車のライトと響き合う光の点が、お母さんを捉えたショット内の同じ位置にあって、我々観客は、過激な切断に心底びっくりさせられるのに加えて、その切断にもかかわらず二つのショットが共鳴し合っていることも同時にびっくりさせられるわけです。
甫木元:ろうそくの光ですね。
廣瀬:あと、光学的共鳴というよりも、むしろ、モチーフの共鳴と呼ぶべきものも『はだかのゆめ』にはあります。圧倒的なのはお母さんの“グルグル”です。
甫木元:コーヒー豆を挽いているシーンですね(笑)
廣瀬:最初のショットでは、椅子に座ってコーヒー豆を挽いているお母さんの全身が画面中央に示され、グルグルグルグルという音が聞こえます。次のショットはお母さんを背後から寄りで捉えたもので、コーヒー豆を挽く動作自体は画面外に出されて、そのグルグル音だけが残されます。その音の継続が第三のショットを到来させます。原っぱのような広い場所が、円を描くようなパンで示されるわけですが、カメラのその回転運動がグルグル音と響き合うわけです。そして、そこに「北の国から」でかかるような曲が…
会場:(笑)
廣瀬:もしやキタキツネの登場かと思いきや(笑) グルグル音は徐々に小さくなっていき、今度はパチッパチッパチッパチッというレコードの回転音が聞こえてくる。コーヒー豆を挽く動作からレコードの回転音に至るまでの同じモチーフの変奏が、お母さんのいるショットをノロのいるショットへと繋いでいくわけです。
オフスクリーンの音の話
廣瀬:『はだかのゆめ』は、したがって、たんなる「切断の映画」ではない。絶対的に切り離されているものがそれでもなお何かを静かに共有しているのです。そうした共有として、声が発せられる場といったことも挙げられると思います。甫木元さんも「みんな独り言を言っている」と仰っていましたが、登場人物たちの声は、誰のものも、画面の外で発せられているかのように聞こえます。
おんちゃんは、確かに、初めて登場する海岸の岩場のシーンでは、画面の中から発声しているようにも思えますが、その後の登場シーンではすべて画面外から声が聞こえてくるようにしか感じられない。おじいさんの声も、ひょっとするとすでに演技をやめている終盤のシーンだけは画面内のおじいさんの身体そのものから発せられているように聞こえるかもしれないけれど、他のシーンではすべて画面外から聞こえてくる。ノロやお母さんについては言うまでもないでしょう。映像の次元では、バラバラに存在している人物たちは、音声の次元ではひとつの同じ場に共存している。あるいは、より精確には、絶対的に隔たったショットどうしのあいだになお生み出される響き合いそれ自体が、画面外での声の共存と、まさに響き合っていると言ってもいいでしょう。
甫木元:録音・整音担当の菊池信之さんと話していたことは、映画では、画は画の進み方があって、“切断”が頻繁に繰り返される。一方、音に関しては別軸で、音は音の物語として作りたいと。一番最初のシーンでセミが鳴いて、いきなりファッっていなくなって、水の中から列車が出てきたかのような音で始まってくるんですけど、音は音の持つ別の語り口で、“切断”というものを語りたいという話から整音作業が始まったことを思い出しました。
僕が高知県に移住して4〜5年でいろんな人から話を聞いたり、祖父が毎日話していることをメモったりとか、単純に風景を見に行ったりとか、高知に住むいろんな人たちを見て、いろんな人格がこの映画の登場人物に立ち上がっているんです。特におんちゃんは、パッチワークのようにいろんな人の話が入ってる。じいちゃんはあそこにずっと住み続けていた人間として、日常の些細な動作を日々繰り返して、時制とか流れみたいなことからはかなり離れている。さっき廣瀬さんが仰った「音だけは全員オフスクリーンである」というのにつながるのかもしれないですけど、音の世界ではみんなが同じ空間にいて、映画の尺の中で山から海へ流れ出るように終わりに向かっているようになったらなという話はしてましたね。
廣瀬:雨降りのシーンでは、まず、室内で机に向かっているお母さんが前景に示されて、その少し奥に雨の打ち付ける閉まった窓があって、後景にノロが現れるのをその窓越しに捉えるというショットがある。これに、屋外から窓越しに室内を捉える切り返しショットが続くわけだけど、お母さんはもういない。さらにもう一度、室内から屋外へ向けたショットが示されると、ノロももういなくなっている。映像の次元では、同一ショット内でも、切り返しでも、出会うことのできないノロとお母さんは、しかし、音声の次元では、画面外の同じ場で互いの声を響かせ合っている。
“のろま”が間に合うことの奇跡
甫木元:脚本を書いてる段階ではもっと長い映画の予定だったので、その行為の動機、人物設定など説明的なところを含めてかなりそぎ落としてるんですよ。例えば最初は、ノロの横を電車が通り過ぎて行って、それにノロが間一髪で乗れるけれども、おんちゃんが電車から突き落として、その先が母親がいるところだったっていうシーンだったんです。当初はみんなが何をやってるかっていう動機が明確になっていました。でも、結局そういうものとは違う映画の組み立て方になりました。
おんちゃんもお墓に花を手向けたり、お酒を買ってお墓参りに行くシーンがあったりとか、儀式的なことをやって死者を思っているっていうシーンもあったんです。でも、実際に行為をしているのは母親だけにしました。祖父もノロも、思いを馳せているけれども日々を淡々とこなしている。
廣瀬:ノロは、出来事に間に合わないから「ノロ」という名前であるわけですが、奇妙なことに、画面内の列車の通過には二回とも間に合っている。とりわけ、二回目は、自分の姿を写した等身大のパネルを持っていてそれだけでも大変そうであるうえに、かなり遠くから走り出しているというのに、どういうわけか間に合ってしまう。僕は「あ〜よかった!いい画が撮れたね〜!」って思わず拍手しそうになりました。
甫木元:正直、間に合う予定じゃなくて(笑) 最初の列車が来るカットを3日間やって1回も成功しなかったんですよ。田舎の列車って好き勝手な時間にやってくるし、助監督に乗車してもらって電話繋いでても途中で圏外になったりするので全くうまくいかず、もうみんな疲れ果ててたんです。撮れなかった時のためにとりあえず1回カメラを回しておこうと、電車が来るはずない時間に試しにやってみたんですよ。そしたらとんでもないタイミングで電車が来てしまって…(笑) だからあれは事故と言っていいんでしょうかね。
廣瀬:出来事に間に合わないはずの人が間に合ってしまうからこその「出来事」「事件」なのかもしれませんね。
甫木元:(笑) どちらのシーンでも、先のほうに駅があって、そこへたどり着けない。さらに毎回電車がやってくるから走らざるを得ない。すでに始まっている物事に遅れてしまっていて、それに無理やり追いつこうとするところを映画の出発点として考えていたんです。
・・・・・・・・・
甫木元:二作目でまた廣瀬さんと対談できて本当に嬉しかったです。また映画作って、廣瀬さんに何か言ってもらえるように頑張ります。
廣瀬:音楽活動で忙しいだろうけど、映画もまた撮ってもらえると嬉しいです。楽しみにしています。