2016.12.02
【スタッフコラム】二十四節気・七十二候とボク by上田
二十四節気:小雪(しょうせつ)、次候:橘始黄(たちばなはじめてきばむ)
12月になりましたね。「師走」と言いますが、この二語に押し詰められたあわただしさは現代人にとって共感しやすいからでしょうか、他の月の異称よりも口々に使われているような気がします。東京でも早めの雪が積もりましたね。例年は少しずつ行っていた冬支度を急ぐ姿が、いつもより冬らしく感じられてどこか懐かしいような気がしました。
この時期に色が満ちていく「橘」。日本固有の柑橘類である「タチバナ」という説が一番強いようですが、古来は食用柑橘類の総称でもあったようで、仮にこの姿を鑑賞するなら庭先に実る金柑などが親しみやすいかもしれません(ちなみに、日本固有種の柑橘類は「タチバナ」と「シークァーサー」しかないそうです)。『日本書紀』や『古事記』にも登場するほど歴史が深い橘は古神道の「常世の神」の依り代(よりしろ ご神木やご神体)でもあり、不老不死の霊薬「非時香菓(トキジクノカクノコノミ)」と呼ばれていました。古今東西、常緑樹は生命力の象徴とされていて、特に香りの高い橘は高貴なものとして扱われていたようです。正月飾りに欠かせない「橙(ダイダイ)」などは「回青橙(カイセイトウ)」と呼ばれることもありますが、それは実がなってからも放っておくと翌年、翌々年まで残って、青くなって色づくことを何度も繰り返すからなのだそうです。「ダイダイ(代々)」の音といつまでも落ちないその生命力が由縁の縁起物です。生命力の「緑」、永遠の「橙」を並べる冬や正月ならではのカラーリングの中にも死や永遠、再生といった生々しいものを見出すことができるんですね。
雪の降り積もる日に、街の色が白一色に統一されてしまうと、冬の花や実の鮮やかな色にしんとした美しさを感じます。果物の色の強さを作品のイメージに変えた小説で梶井基次郎さんの『檸檬』なんかは有名ですよね。丸善の書棚に本を雑多に並べて、檸檬を置いていくというシーンが有名なこの作品の影響で、しばらく檸檬を置いていくお客さんが絶えなかったそうです。爆発物のかわりに檸檬を置くという過激な空想の話ですが、三島由紀夫さんも絶賛していたそうです。イメージの中で済ませた『檸檬』とは違って、三島由紀夫さんは『金閣寺』の中では実際に寺を放火してしまいます。現実の抑圧と退廃、そこから生まれる美のイメージは鋭利で、頭にこびりついて離れません。そういうものに触れると、なんだか生き返るような気がするので度々読み返したくなります。
(上田)