2018.09.20

【スタッフコラム】二十四節気・七十二候とボク by上田

二十四節気:白露(はくろ)、末候:玄鳥去(つばめさる)

暑くて雨が多い夏が終わり、秋がやってきましたね。やっと過ごしやすくなり、爽やかな空気に一息つきながらも、今年ももう残りが少なくなってきたなと気づかされました。渡り鳥たちはこれから冬の間南の暖かい国へいって、春にまた戻ってきます。ツバメは人が住んでいるところに巣を作ります。カラスなどの外敵が人間を避けるため、彼らにとっても都合が良いそうなのですが、人間も畑の害虫を食べてくれるツバメを昔から益鳥として重宝していたそうです。ツバメは唾液で泥や枯草を固めて巣を作ります。中国の高級料理「ツバメの巣」は断崖絶壁に暮らすアナツバメという種類のツバメが、ほぼ100%唾液だけで作った巣のことを言うそうですよ。うぇ。断崖絶壁に巣を作る習性を利用して、今では鉄筋コンクリート製の建物の窓を開けて環境を似せて集団営巣地を作って市場への供給を安定させているのだとか。

これを書いている9月19日は、糸瓜(へちま)忌、獺祭(だっさい)忌と呼ばれている正岡子規の命日でした。正岡子規は自然主義の影響を近代の日本文学、特に短詩形文学に大きく及ぼしたと言われています。その中心的な概念が「写生」と呼ばれるもの。いわゆる見たままを詠むということなのですが、これがなかなか難しい。優れた俳句は読んだときにその姿がありありと思い起こされるのです。この写生の「みたまま」という概念は写真から生まれた映画とも縁が深く、昔の映画人の多くも俳句を詠んでいたといいます。そういえば小津映画のタイトルはどれも俳句の季語のような言葉ばかりですよね。明治の印象が強い正岡子規ですが、正岡子規が死んだ翌年に小津安二郎が生まれているんです。約120年くらい前の話ですが、まだ映画も俳句も生まれてから百年とちょっとしか経っていないんですね。

子規の詠んだ有名な句に「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句がありますが、実はこの句が優れた句かどうかという論争が随分長い間繰り広げられています。十四五本という本数を変えても通用するのでは? とか、ケイトウじゃなくてもいいのでは? などと多くの俳人や評論家が子規の「写生」とケイトウの句について言葉を尽くしているのですが、ある意味でいうと、時代とともにどんどん変わっていく俳句観と、子規の「写生」という概念との距離を測るためにずっと議論されているとも言えると思います。わたしはこの句の印象が強すぎるためか、ケイトウを見るといつも頭の中でこの句を思い出してしまいます。ケイトウの色はとても鮮明で遠くからでもすぐに気がつきますし、モコモコとした感じがかわいくてとても好きな花の一つです。もうケイトウの季節は終わりますが、ちょうど今週末はお彼岸と十五夜(中秋の名月)で秋のイベントが続きますし、曼珠沙華と共に畑の隅に咲いている姿を目にする人も多いのではないでしょうか。

(上田)