2020.07.16
【スタッフコラム】ごくごく私的偏愛女優たち by甘利類
その42 メーベル・ノーマンド
サイレント期の三大喜劇俳優といえば、バスター・キートンとハロルド・ロイド、そしてチャールズ・チャップリン。多くの主演(監督)作品の邦題に『キートンの~』『チャップリンの~』のように冠が付くことだけでも、彼らがどれほどの人気者だったかわかると思います。しかし、彼らと同じく主演作に冠がつくほどの人気があったにも関わらず、現在ではあまり作品が観られていない不幸な喜劇人がいます。彼女の名はメーベル・ノーマンド。メーベルこそサイレント時代最大のコメディエンヌであり、監督・脚本など作品のトータルな完成に関わる映画作家でもありました。
1892年にニューヨークの貧しい家庭に生まれたノーマンドは、13歳からモデルとして活動。演技経験はなかったものの、D・W・グリフィス監督の助手に才能を見出され18歳で映画界へ。まもなくグリフィスの現場を出入りしていた後の喜劇王マック・セネットと出逢って恋仲になり、セネットの会社キーストン社の旗揚げに参加します。パイ投げや体を張ったギャグが連続するドタバタコメディのひな形を作ったセネットコメディの中で、メーベルはすぐに天賦のコメディセンスを発揮。当時新人だったチャップリンとも互角に渡り合う愛嬌ある演技とギャグセンスでたちまち大スターになります(日本でも数多くの主演・監督作が公開され、「ハネ子」という味のあるあだ名がついていたそうです)。
しかし、公私共にパートナーだったセネットと些細な誤解から破局してしまった後、1922年に大きな不運が彼女を襲います。懇意にしていた映画監督デスモンド・テイラーが殺害された時、テイラーと最後に会った人物として疑惑がかけられてしまうのです。結局事件とは無関係と判明したものの、一度傷がついたイメージはなかなか回復できません。さらに翌年メーベルが当時交際していた資産家コートランド・S・ダインズが彼女の運転手に銃で撃たれ、負傷する事件が発生。スキャンダラスなイメージは決定的になってしまいます。その後数本の作品に出演するも精彩を欠き 、結核を悪化させて37歳の若さでこの世を去ってしまいました。
1954年に出版されたマック・セネットの自伝には、メーベルがいかに魅力的で才能あふれる女性だったかが生き生きと描かれています(彼女を崇拝し、破局した後もサポートし続けたセネットは生涯独身を貫きました)。二人の物語は「マックとメーベル」というブロードウェイミュージカルとして1976年に舞台化され、現在でもたびたび再演される名作として知られています。
(甘利類)