2016.08.18
【スタッフコラム】ごくごく私的偏愛女優たち by甘利類
その5 水久保澄子と『君と別れて』
『君と別れて』(33)は成瀬巳喜男監督のサイレント期の名作である。芸者稼業の母を持つ青年・義雄と、芸者をする娘・照菊との淡い恋愛と別れが端正な演出で語られる珠玉の作品だ。本作をより特別なものにしているのは、これが水久保澄子の代表作だということだろう。小津安二郎『非常線の女』(33)、清水宏『大学の若旦那』(33)などに出演した彼女は、現代に芸能界デビューしても充分売れっ子になれそうな、親しみやすくチャーミングな女優である。実際に当時アイドルスター的人気があったようだ。
だが、雑誌「映画論叢」4号の山下武氏の文章(「暗転 水久保澄子の悲劇」)によると、彼女が16歳から女優をやり始めたのは、事業に失敗し多額の借金を背負った家庭を支えるためであり、したいことも出来ずにただしゃかりきに働いていたというのが実情のようだ。そんな彼女の実人生を知ると、『君と別れて』で水久保が演じた芸者・照菊は、まるで成瀬が彼女のために書いた役のように見えてしまう(原作・脚本も成瀬自身)。照菊の父は酒浸りで働かず、母は父に無力に従っているばかり。実家の暮らしを支えるために照菊もまたやむなく芸者をしているのである。物語の終盤、照菊は妹を芸者働きさせないため、ひとり遠くに住み込みで働くことを決心する。「でもあたし生きるわ。どんなつらい事があっても負けないで生きて行くわ」。お互い慕い合う義雄に別れを告げたあと、自分に言い聞かせるようにそうつぶやく彼女の表情が、痛ましくも気高くて美しい。
水久保澄子の女優人生もまた、決して恵まれたものではなかった。若くして松竹蒲田撮影所のスターになるも、松竹から日活への本人の望まぬ突然の移籍(ギャラに目がくらんだ父が彼女に無断で進めてしまったらしい)、自殺未遂騒ぎや自称・大富豪(実際は大嘘)のフィリピン人との国際結婚の失敗などの度重なるスキャンダルによって、わずか19歳で映画界から完璧に消されてしまうのである。その後はダンサーをしたりしながら中国に渡ったようだが、詳しい消息は謎に包まれている。
本当に残念なことに、40本近くあった水久保澄子出演作の多くが失われ、現在では見ることが出来ない。わずかに残された彼女の輝きを見るにつけ、女優として不幸だったとしても、照菊のように気丈な表情で生き抜いて、彼女なりに幸せな人生を全うしたのであってほしい、そう願わずにはいられない。
(甘利類)