【2023/5/13(土)~5/19(金)】『ある男』『PLAN 75』

ミ・ナミ

今週の早稲田松竹は、石川慶監督『ある男』と、早川千絵監督『PLAN75』の二本立てです。75歳以上の高齢者について命の線引きをする『PLAN75』。最愛の夫となった男性が、その死後、実は身元を偽った全く知らない人間だったことが発覚する『ある男』。この二本をごく端的に言い当てるなら、アイデンティティの危機や葛藤というべき主題のヒューマンドラマ、サスペンスなのかもしれません。それでいていずれも、フィクションである映画と現実社会との間に合わせ目を生み出すような作品です。

『PLAN75』の舞台となるごく近未来の日本では、〈プラン75〉というシステムの目的を「高齢者に生死の選択権を与える」としていますが、必ずしも自由意思による決定とは言い難いものがあります。社会的ムードの根源にあるのは、人間を役に立つか/否かで選別する優性思想的な不寛容さ。ただ現代が絶望的であるのは、かつて“姥捨て山”のような虚構として存在していたものが、今の世の中ではまるで市民権を得たかのように人間の感情から露になっていることです。誰かを恣意的に殺していくという黒い感情が、経済対策の名分によって認められ、当事者たちも納得させられてしまう社会を私たちが今まさに生きていることは、何か例示せずとも想像がつく方は多いのではないでしょうか。

『PLAN75』は、ディストピアと言えるほど遠い世界を描いていないのです。しかしこの映画は、たとえば伝統的な家族愛でのみ抵抗するのではなく、もっと人間を自律的な方向へと導いていきます。「私が生きていたいから、この先も生きているんだ」。そう力強く言い放つかのようなクライマックスが、厳粛な感動を与えてくれます。

『ある男』は、他人になり替わって生きていた“ある男”の秘められた過去をめぐる単線のドラマかと思いきや、〈自己〉という問題が重層的に絡み複雑で哲学的な問いを投げかける作品です。アイデンティティとは、この映画で取り扱われる民族的アイデンティティに代表されるように、不寛容な社会に排除される危険もはらむものもあります。自分が自分である理由そのものなのと同時に、ひとたびラベリングされてしまえば超越できないものがアイデンティティではないのでしょうか。自分そのものでありながら、こうまで己を苦しめるアイデンティティ=自分自身とはいったい何者なのか―。この問答の繰り返しほど、苦悶に満ちている時間はないように思います。

社会批判や現実的イシューに接続しつつも、『ある男』は〈私〉という存在の曖昧さで観客を混沌の中に放り出します。監督はあるインタビューで「この映画のあちこちに〈私〉が埋まっている。観客たちも是非スクリーンという鏡で自分に向かうことができれば、これ以上望むことはない」(*1)と語っているように、そんな曖昧な私たちの現し身をみつけに行くことこそがこの映画の本質なのではないでしょうか。

アイデンティティという極めて複雑な主題に挑むこの二作品は、明快な結論を出さないままに幕を下ろします。だからこそ、観客がどこかに自身との重なりや共鳴を感じられるのではないでしょうか。共鳴の瞬間をどれほど多様に生み出せるか、どれほど多くの窓を作るかが映画の美徳かもしれない。この二本を観ると、私はそんな風に思うのです。

(*1)CINE21 2022年釜山国際映画祭特集 石川慶監督『ある男』インタビュー「どんな瞬間も真実かもしれない」 から一部抜粋・要約
http://m.cine21.com/news/view/?mag_id=101213 

PLAN 75
PLAN 75

早川千絵監督作品/2022年/日本・フランス・フィリピン・カタール/112分/DCP/ビスタ

■監督・脚本 早川千絵
■脚本協力 ジェイソン・グレイ
■撮影 浦田秀穂
■美術 塩川節子
■編集 アンヌ・クロッツ
■音楽 レミ・ブーバル

■出演 倍賞千恵子/磯村勇斗/たかお鷹/河合優実/ステファニー・アリアン/大方斐紗子/串田和美

■2022年カンヌ国際映画祭ある視点部門正式出品・カメラドール特別表彰/ブルーリボン賞主演女優賞・監督賞受賞/日本アカデミー賞主演女優賞・脚本賞ノミネート

©2022『PLAN 75』製作委員会/Urban Factory/Fusee

【2023/5/13(土)~5/19(金)上映】

それは、75歳から自らの生死を選択できる制度――果たして、是か、非か

少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本。満75歳から生死の選択権を与える制度<プラン75>が国会で可決・施行された。様々な物議を醸していたが、超高齢化問題の解決策として、世間はすっかり受け入れムードとなる。

夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチは78歳。ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。一方、市役所の<プラン75>の申請窓口で働くヒロム、死を選んだお年寄りに“その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑶子、フィリピンから単身来日し<プラン75>の関連施設で働いているマリアは、このシステムの存在に強い疑問を抱いていく…。

カンヌ国際映画祭「ある視点」部門カメラドール特別表彰! 「生きる」という究極のテーマを全世代に問いかける衝撃作!

物語の中心となるミチに、9年ぶりの主演作となる名優・倍賞千恵子。「最初はひどい話だと思ったが、ある選択をするミチに心惹かれ、出演を即決した」という。セリフで多くを語るのではなく、目や手の動きだけで哀しみや恐れなどの感情を繊細に表現した。若い世代のヒロムと瑶子を『ヤクザと家族 The Family』の磯村勇斗、『由宇子の天秤』の河合優実が演じる。

監督・脚本は、本作が長編初監督作品ながら、2022年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に正式出品の快挙を成し遂げた、早川千絵。年齢による命の線引きというセンセーショナルなモチーフを打ち出しつつ、細やかな演出で、この世界を懸命に生きる人々を丁寧に描いた。2025年には国民の5人に1人が75歳以上になると言われる日本で、ここに映し出される状況は絵空事と言い切れない。他者への不寛容さや痛みに対する想像力を欠いた世の中への危機感とともに、命の尊さを静かに、そして強く訴える。

ある男
A Man

石川慶監督作品/2022年/日本/121分/DCP/ヨーロピアンビスタ

■監督・編集 石川慶
■原作 平野啓一郎「ある男」文春文庫刊
■脚本 向井康介
■撮影 近藤龍人
■照明 宗賢次郎
■音楽 Cicada

■出演 妻夫木聡/安藤サクラ/窪田正孝/清野菜名/眞島秀和/坂元愛登/山口美也子/きたろう/ カトウシンスケ/小籔千豊/河合優実/でんでん/仲野太賀/真木よう子/柄本明

■第46回日本アカデミー賞作品賞・主演男優賞・助演女優賞受賞・監督賞 ほか多数受賞/ブルーリボン賞作品賞受賞/ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ・コンペティション部門正式出品/カイロ国際映画祭脚本賞受賞

©2022「ある男」製作委員会

【2023/5/13(土)~5/19(金)上映】

愛したはずの夫は、まったくの別人でした――

弁護士の城戸は、依頼者の里枝から、亡くなった夫「大祐」の身元調査という奇妙な相談を受ける。里枝は離婚を経て、子供を連れて故郷に戻り、やがて出会う「大祐」と再婚。新たに生まれた子供と4人で幸せな家庭を築いていたが、ある日彼が不慮の事故で命を落としてしまう。悲しみに暮れる中、長年疎遠になっていた大祐の兄・恭一が法要に訪れ、遺影を見ると「これ、大祐じゃないです」と衝撃の事実を告げる。愛したはずの夫は、名前もわからないまったくの別人だったのだ…。

「大祐」としていきた「ある男」は、いったい誰だったのか。「ある男」の正体を追い“真実”に近づくにつれて、いつしか城戸の心に別人として生きてきた男への複雑な思いが生まれていく――。

本年度日本アカデミー賞作品賞受賞! 「愛」と「過去」をめぐる珠玉の感動ヒューマンミステリー

芥川賞作家・平野啓一郎による、人間存在の根源を描き読売文学賞を受賞した小説「ある男」が、ついに映画化。監督を務めるのは、『愚行録』『蜂蜜と遠雷』などで数々の映画賞を受賞し、国内外から高い評価を得る石川慶。脚本は石川監督とタッグを組んだ『愚行録』をはじめ『マイ・バック・ページ』『聖の青春』など、数々の話題作を手掛けてきた向井康介が務めた。

”ある男”の正体を追う主人公の弁護士・城戸を演じるのは妻夫木聡。石川組への参加は『愚行録』、TVドラマ「イノセント・デイズ」に続き3回目となる。城戸に亡き夫の身元調査を依頼する里枝役には、映画への本格出演が『万引き家族』以来4年ぶりの安藤サクラ。里枝の夫であり「大祐」として生きた“ある男”を演じるのは、映画だけでなくNHK連続テレビ小説「エール」で主演を務めるなど幅広く活躍する窪田正孝。さらに、清野菜名、眞島秀和、小藪千豊、仲野太賀、真木よう子、そして柄本明ら日本を代表する豪華俳優陣が顔を揃えた。

本作は第46回日本アカデミー賞にて作品賞をはじめ主演男優賞など最多8部門受賞という快挙を成し遂げ、2022年の日本映画を代表する1本となった。