どこかで、事件が起こった。
無邪気だった彼らは慄き、発するはずだった多くの声を失ってしまった。
人々はその事件を運命だと感じたり、暴力だと認識したり、それは希望だと考えなおしたりした。
原因はわからない。
ただ突然そこに放り込まれた彼らは、なにかせずにはいられなかった。
そして、初めはただの身の回りの小さなこと。あらかじめ説明する必要も、
敢えて誰かに伝える必要もない、自分にとって確かなことを静かにつぶやき始めた。
「私の名前はキャシー・H」
『わたしを離さないで』の冒頭を、原作者カズオ・イシグロはそう綴った。
彼女たちにとって、生まれたことは事件だった。
最初はそうではなかった。彼女たちの出生の謎が、自身の人生を左右して悩ませ、
心を騒がせるようになるのは、彼女たちが課された役割を知り、自分を知るようになり始めてからだった。
運命とも思える大きな流れのなかに自分の人生があると思ったときに、人はどうするのだろう。
カズオ・イシグロはこんなことを言っている。
「私の世界観は、人はたとえ苦痛であったり、悲惨であったり、あるいは自由でなくても、
小さな狭い運命の中に生まれてきて、それを受け入れるというものです。
みんな奮闘し、頑張り、夢や希望をこの小さくて狭いところに、絞り込もうとするのです。
そういうことが、システムを破壊して反乱する人よりも、私の興味をずっとそそってきました。」
『愛する人』のエリザベスは言う。
「ロサンゼルスで生まれ、その日に養子に出されました。実母のことは何も」
彼女にとっての人生の課題とは、一人で生きていくこと。
もちろん自ら選択したわけではない。
自分を生みだしたものを想像し、自分の境遇を不安に思って、
何度も狂おしくなるほど孤独な夜を越えながら、そのことを受け入れていったのかもしれない。
しかし一人で生きていくことは、他の人と生きていくことを難しくしていった。
そんなエリザベスに子供ができたとき、彼女はどんなことを考えただろう。
彼女にとって一人でなくなること(生み出すこと)は、どういうことだったのだろう?
「ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで」
キャシーがこの曲を聴きながら、人形を抱きしめるとき、その姿は母親さながら、
まるで「私」が自分ではなく、抱きしめられている「あなた」であるかのよう。
この小さな倒錯の真実、その驚き。エリザベスもそれを感じたのではないだろうか。
私たちの時間に質量を与えているのは、人類が何度も繰り返しているそんな小さな奇跡。
それは、カセットプレーヤーから繰り返される音楽のように、
その静かな回転音を今日もどこかで私たちに届かせている。
(ぽっけ)
愛する人
MOTHER AND CHILD
(2009年 アメリカ/スペイン 126分 シネスコ/SRD)
2011年7月30日から8月5日まで上映
■監督・脚本 ロドリゴ・ガルシア
■製作総指揮 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
■撮影 ハビエル・ペレス・グロベット
■編集 スティーヴン・ワイズバーグ
■音楽 エドワード・シェアマー
■出演 ナオミ・ワッツ/アネット・ベニング/ケリー・ワシントン/ジミー・スミッツ/デヴィッド・モース/サミュエル・L・ジャクソン
■インディペンデント・スピリット賞助演男優賞ノミネート(サミュエル・L・ジャクソン)・助演女優賞ノミネート(ナオミ・ワッツ)
カレン、51歳。老いた母を介護しながら働く日々。14歳の初恋で妊娠をし、出産したが、幼すぎたゆえに母親の反対にあい、生まれた娘を手放すしかなかった。そして今、逢ったことのない我が娘に想いを寄せながら、自分の母とは分かり合えずにいる。
エリザベス、37歳。弁護士として素晴らしいキャリアを持つが、養子に出された経験からか、家族や恋人と深く関わることを拒みながら生きている。母として、娘として、女として何かを失ったまま生きてきた2人。そんな彼女たちに訪れた転機――カレンの母が死に、エリザベスは妊娠。彼女たちに強い衝動が湧きあがり、それぞれの決断を下す。娘に、母に、愛していると伝えたい…そして物語は、衝撃と感動のフィナーレへ。
監督は、『彼女を見ればわかること』『美しい人』など、女性を描くスペシャリストとして、そして作家ガルシア・マルケスの息子として世界に名をはせているロドリゴ・ガルシア。彼が10年間構想したこの物語に『21グラム』『バベル』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥが心酔し、プロデューサーを引き受けた。
錚々たるハリウッド女優たちが出演を熱望する中、最高のキャスティングが実現。度重なるオスカー候補になっているアネット・ベニングがカレンを、様々な作品で違う顔を見せる実力派女優、ナオミ・ワッツがエリザベスを熱演した。ナオミ自身が実際の妊婦姿で登場していることからも、その意気込みが伺える。
わたしを離さないで
NEVER LET ME GO
(2010年 イギリス/アメリカ 105分 シネスコ/SRD)
2011年7月30日から8月5日まで上映
■監督 マーク・ロマネク
■原作・製作総指揮 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房刊)
■脚本 アレックス・ガーランド
■撮影 アダム・キンメル
■音楽 レイチェル・ポートマン
■出演 キャリー・マリガン/アンドリュー・ガーフィールド/キーラ・ナイトレイ/シャーロット・ランプリング/イゾベル・ミークル=スモール/チャーリー・ロウ/エラ・パーネル/サリー・ホーキンス
■インディペンデント・スピリット賞撮影賞ノミネート
緑豊かな自然に囲まれた寄宿学校“ヘールシャム”で学ぶキャシー、ルース、トミーは、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた。しかし外界と完全に隔絶したこの施設にはいくつもの謎があり、保護官と呼ばれる先生のもとで絵や詩の創作に励む子供たちには、帰るべき家がなかった。
18歳の時に寄宿学校を出て農場のコテージで共同生活を始めた3人は、初めて社会の空気に触れる。ルースとトミーが恋を育む中、孤立していくキャシー。複雑に絡み合ったそれぞれの感情が、彼らの関係を微妙に変えていく。その後、コテージを巣立って離ればなれになった3人逃れようのない過酷な運命をまっとうしようとする。まるで純粋培養さながらに大切に育てられた若者たちは、見知らぬ誰かのためにこの世に生を受けた<特別な存在>だったのだ。やがて再会を果たしたルース、トミーとのかけがえのない絆を取り戻したキャシーは、ささやかな夢をたぐり寄せるため、ヘールシャムの秘密の<真実>を確かめようとするのだが…。
比類なき衝撃的な世界観ゆえに、映像化不可能と見なされていたブッカー賞受賞作家、カズオ・イシグロの傑作小説『わたしを離さないで』の完璧なる映画化が実現した。イギリスの詩情豊かな田園地帯を背景とした小説の主人公は、私たちと何ら変わりない身なりと感情を持った男女3人。しかし謎めいた寄宿舎で育った彼らは、普通の人々と違う痛ましい運命を定められていた。
『17歳の肖像』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたキャリー・マリガン、『つぐない』のキーラ・ナイトレイ、『ソーシャル・ネットワーク』のアンドリュー・ガーフィールドという今をときめく若手俳優3人が体現するのは、運命を受け入れひたむきに生きようとする若者たちの眩いほどの輝き。そのあまりに儚い青春の一瞬一瞬に心震わされ、誰もが時間を止めたいとさえ願わずにいられない。まさに奇跡のようにきらめく、ピュアな美しさを湛えた珠玉作が誕生した。