2016.11.17
【スタッフコラム】ごくごく私的偏愛女優たち by甘利類
その8 デルフィーヌ・セイリグと『インディア・ソング』『ブリュッセル1080 コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』
1970年代半ば、フランスの女優デルフィーヌ・セイリグはマルグリット・デュラス監督『インディア・ソング』とシャンタル・アケルマン監督『ブリュッセル1080 コメルス河畔通り23番地 ジャンヌ・ディエルマン』(以下『ジャンヌ』)というアートフィルム史上の重要作に相次いで主演する。
『インディア・ソング』で彼女が演じるのはカルカッタのフランス大使夫人。彼女に想いを募らせるラホール元副領事官との不可能な愛の物語が語られはするのだが、その語り口は通常の映画文法からかけ離れている。登場人物たちは緩慢な動作でダンスをしたり身を横たえたりするばかりだし、音は映像と同期することがないばかりか、画面外から人称の定かならぬ声が響きつづける。そこに映し出されるのは、デュラス本人の幼少期の記憶に起因する光景なのだが、それを知らなければこの世ならざる彼岸の世界のようにも見える。名状しがたい倦怠と郷愁が観る者を包み込んでいく本作で、デュラスはセイリグの演技を心理から解き放ち、放心したリビングデッドのような振る舞いをさせることで、逆に彼女の身体のリアリティを官能的に浮き彫りにしている。
一方、『ジャンヌ』はタイトルロールであるセイリグ演じる専業主婦の三日間の物語である。とはいえ198分の上映時間の大半は、彼女が皿を洗ったりジャガイモの皮をむいたりといった日常的な家事を淡々とこなすのを観察するように映し出すばかりだ。アケルマンはセイリグからスターの威光を剥ぎ取り、ごく平凡な女性像の典型を徹底的に演じさせる。だが、その一挙手一投足にはジャンヌというリアルなひとりの女性の実存が見事に立ち現れており、そのありふれた行為の反復には思わず魅入ってしまう不思議な力がある。しかし、その日常的な行為のうちの微かな変化を通して、彼女の精神の何かが崩れかけているのが次第に明かされるとき、映画は未曾有の緊張感を漲らせることになる。突然に訪れるカタストロフのあとのセイリグの表情は壮絶に美しい。
デルフィーヌ・セイリグは多くの名匠に愛された大女優だが、デュラスとアケルマンというふたりの独創的なシネアストとの共犯関係で生まれたこの二作ほど、鮮烈かつ感動的に彼女の存在を焼きつけたフィルムはないと思う。
(甘利類)
© Chantal Akerman Foundation