すみちゃん
セルゲイ・ロズニツァ監督はウクライナ出身の監督だ。今まさにロシアが侵略し、攻撃をしているのがウクライナであり、今回上映される映画は、ソ連やナチスが人々を苦しめ続けた歴史が映し出されている。
【群衆】(ぐんしゅう)とは、群がり集まった人々のこと。と辞書には書かれているけれど、ロズニツァ監督の描く《群衆》ドキュメンタリー3選は、ただ人間が集まるだけの映画ではない。集まる人々が同じ対象を見つめ、各々の秘めた(もしくは解放された)感情が、同じ時に集合することで巨大なエネルギーとして映し出されている。そして、その巨大なエネルギーが利用されてしまった過去を持つソ連の歴史が、私たちに訴えかけてくるものは大きい。もしかしたら今、自分自身が強く信じていることは、誰かに操られているのではないだろうか? と思うとぞっとするような瞬間もある。あなたの意志はいま、ここにあるのか、何を見つめているのか? そう問われる強靭な作品群だ。
『国葬』には膨大なアーカイブ映像が使用されている。スターリンの国葬時にいかに人が動きを止め、その様子を見つめていたかが映し出される。スターリンのしてきた残虐的な行為は今や誰しもが知っている。しかし、この映像に映る民衆は、スターリンの死を嘆き悲しんでいる。『粛清裁判』では、1930年、複数の科学者と経済学者が「国家転覆を企てた」とされ、公開裁判が行われた際の映像を元に作られている。しかし、それはスターリンがでっち上げたものだった。民衆はでっち上げだなんて思わずに、被告を「銃殺にしろ」と書いた横断幕を掲げ夜の街頭を練り歩きデモを行う。いかに恐怖政治というものが人々をコントロールしていたのかがよく分かる2作品だ。
『アウステルリッツ』では、ベルリン郊外のある施設を観光している人々がひたすら行き交う。その施設は第二次世界大戦中にホロコーストで多くのユダヤ人が虐殺された元強制収容所だ。観光客はTシャツに短パンなどのラフな格好で歩き回っている。この違和感はなんだろうか? この土地で、この場所で、あまりにも残酷なことが行われていたにもかかわらず、過去とのあまりにも違い過ぎる現状の人々の姿に胸が引きちぎれそうになる。と同時に、自分自身にもその違和感は向けられる。わたしも観光客の時にそうではないのか? 同時上映のアラン・レネ監督『夜と霧』を観ることで、より一層私たち自身の持つ残虐さを突き付けられる。
ロシアの攻撃により、ウクライナの人々の日常が奪われていく現状に、胸が痛くなる。同じ時代を生き、こうして無残な現状を私たちはリアルタイムで目撃をしているのに、止めることができない。しかし、“ロシアが”と、ひとくくりで言える問題ではない。ロシア国内でもウクライナへの侵攻に反対しデモをしている人もいる。ヨーロッパ映画アカデミー(EFA)がウクライナへの連帯を表明し、今年のヨーロッパ映画賞からロシア映画を除外するという声明を発表した。その後、ロズニツァ監督はヨーロッパ映画アカデミーを強く批判し、脱退を表明した。彼はこう話している。
“What is happening before our eyes if horrible, but I’m asking you to not fall into craziness. We must not judge people based on their passports. We can judge them on their acts. A passport is tied to the place we happen to be born, whereas an act is that a human being does willingly,”
「目の前で起きていることは恐ろしいことですが、狂気に陥らないようにお願いします。パスポートで人を判断してはいけない。行動で判断すればいいのです。パスポートは、たまたま生まれた場所に縛られているが、行為は、人間が自ら進んで行うものです。」
※VARIETYオンライン記事より抜粋、訳は赤坂太輔氏のものを引用しました。
しかし、こうした発言を受けて、ウクライナ映画アカデミーは、母国への忠誠心が不十分であると判断し、ロズニツァ監督をメンバーから除名した。ロズニツァ監督は、2018年に『Donbass』という東ウクライナのドンバス地区で起き続けているロシアとのハイブリット戦争が描かれた映画を監督している。彼はずっとずっと前から、ロシアの侵略は始まっていることを見て見ぬふりはしなかった。けれど、こうした分断はあっけなく行われてしまう。
ロシア人、ウクライナ人、日本人、ありとあらゆる国の人々を、ひとくくりにするのは分かりやすい。けれど、残虐的な行為をし、支持する人と、抵抗している人が同じだとは到底思えない。ロズニツァ監督のドキュメンタリーに映っている群衆は、そのひとくくりにしてしまう危険性に気づかないまま映像の中に存在している。膨大な過去のアーカイブ映像に映る彼ら、彼女らから私たちが学べることは必ずあるはずだ。
ロズニツァ監督は映画を通し、群衆の中に紛れているそこのあなたに、わたしに、”真実に目を向けているのか”と問いただしてくる。目の前で起こり続けている無残で理不尽な現実に対し、自分の信じたいように解釈し、向き合わなければならないことに目を背けてはいないだろうか? 守らなければならない大切なものを諦めてはいないだろうか? 群衆の瞳に映る、まぎれもないその過去からの視線を、私たちは受け止めなければならないだろう。
国葬
State Funeral
■監督 セルゲイ・ロズニツァ
■第76回ベネチア国際映画祭正式出品
©︎ATOMS & VOID
【2022年3月26日(土)から3月28日(月)まで上映】
ソビエト全土を巻き込んだ 人類史上最大規模の国葬の記録
1953年3月5日。スターリンの死がソビエト全土に報じられた。モスクワ郊外で発見されたスターリンの国葬を捉えた大量のアーカイヴ・フィルムは、同時代の200名弱のカメラマンが撮影した、幻の未公開映画『偉大なる別れ』のフッテージだった。そのフィルムにはモスクワに安置された指導者の姿、周恩来など各国共産党と東側諸国の指導者の弔問、後の権力闘争の主役となるフルシチョフら政府首脳のスピーチ、そして、ヨーロッパからシベリアまで、国父の死を嘆き悲しむ幾千万人の人の顔が鮮明に記録されていた。67年の時を経て蘇った人類史上最大級の国葬の記録は、独裁者スターリンが生涯をかけて実現した社会主義国家の真の姿を明らかにする。
粛清裁判
The Trial
■監督 セルゲイ・ロズニツァ
■第75回ベネチア国際映画祭正式出品
©︎ATOMS & VOID
【2022年3月26日(土)から4月1日(金)まで上映】
後の大粛清(テロル)につながる “でっちあげ”裁判の全貌
1930年、モスクワ。8名の有識者が西側諸国と結託しクーデターを企てた疑いで裁判にかけられる。この、いわゆる「産業党裁判」はスターリンによる見せしめ裁判で、90年前に撮影された法廷はソヴィエト最初期の発声映画『13日(「産業党」事件)』となった。だが、これはドキュメンタリーではなく架空の物語である———発掘されたアーカイヴ・フィルムには無実の罪を着せられた被告人たちと、彼らを裁く権力側の大胆不敵な共演が記録されていた。捏造された罪と真実の罰。スターリンの台頭に熱狂する群衆の映像が加えられ再構成されたアーカイヴ映画は、権力がいかに人を欺き、群衆を扇動し、独裁政権を誕生させるか描き出す。
アウステルリッツ
Austerlitz
■監督 セルゲイ・ロズニツァ
■第73回ベネチア国際映画祭正式出品
© Imperativ Film
【2022年3月29日(火)から4月1日(金)まで上映】
元強制収容所を観光する ダーク・ツーリズムのオブザベーショナル
ベルリン郊外。真夏の陽光を背に吸い寄せられるように群衆が門を潜っていく。“Cool Story Bro”とプリントされたTシャツを着る青年。辺り構わずスマートフォンで記念撮影をする家族。誰かの消し忘れた携帯からはベートーヴェン交響曲第五番「運命」の着信音が鳴り響く。ここは第二次世界大戦中にホロコーストで多くのユダヤ人が虐殺された元強制収容所だ———戦後75年、記憶を社会で共有し未来へ繋げる試みはツーリズムと化していた。私たちは自らの過去にどのように触れたらよいのだろうか。ドイツ人小説家・W.G.ゼーバルト著書「アウステルリッツ」より着想を得て製作した、ダーク・ツーリズムのオブザベーショナル映画。
夜と霧
Night and Fog
■監督 アラン・レネ
■撮影 ギスラン・クロケ/サッシャ・ヴィエルニー
■ナレーション原稿 ジャン・ケイロル
■音楽 ハンス・アイスラー
■ナレーション ミシェル・ブーケ
© 1955 ARGOS FILMS / COCINOR
【2022年3月29日(火)から4月1日(金)まで上映】
見る者を戦慄させる32分。「過去の真実」をつづる映像が、私達に伝えるものは何か…。
ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺が行われたアウシュヴィッツ収容所。『去年マリエンバートで 』『戦争は終った』『恋するシャンソン』などで知られるフランスの巨匠アラン・レネが、そのアウシュヴィッツ強制収容所をドキュメントした中編記録映画である。当時のニュースフィルムや写真などのモノクロ映像に、現在の荒廃した収容所跡地のカラー映像をモンタージュした生々しい映像で「忌まわしき過去の真実」を見せつける。
ショッキングな映像で綴られるユダヤ人大虐殺の実態。目を背けたくなるような生々しい映像が続くが、目はスクリーンに釘付けとなる。1955年の映画完成から65年以上を経ているが、その迫真性は今もまったく色褪せていない。この映画は「人間の持つ残虐性」をはっきりと見せつけている。それと同時に過酷な収容生活の中でも、神に祈り、夢を持ち、闘い続けた「人間の強さ」も教えてくれる。