私は隣人の顔を知らない。しかし、今住んでいるアパートの隣人が、中年夫婦ということは知っている。古い物件で壁が薄く、彼らの会話が聞こえてくるのだ。すると、顔も知らない隣人の生活を覗いている感覚に陥り、こちらの物音も聞かれてしまってはいけないという、強迫観念に囚われてしまう。怒鳴り声や泣き叫ぶ声、会話の内容から、彼らは「深く関わらない方が良い人たち」なのだ。関わってしまったら、彼らにとっての隣人という存在になってしまう。互いに存在してしまわぬように、顔も知らない、知られない関係でいるように、私は静かに生活している。
今週お届けする映画は、隣人にまつわるお話…と、一言では済まない映画たちである。まさか、隣人によって生活が変わってしまうことがある…ありそうでなかった、もしくは、考えたくない話だ。「隣人」という言葉だけの存在が、どんどん肉付けされ、はっきりとした顔を持つようになる。その過程はとてもスリリングでサスペンスに富んでいる。
『クリーピー 偽りの隣人』は、タイトルから分かるように、ぞくぞくするようなサスペンスだ。キャッチコピーは衝撃的で「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です。」というもの。それは隣人の娘が主人公に言い放った一言だ。じゃあ、その人は一体誰なのか。主人公は、その真実に迫るのである。
本作のストーリーは現実離れしているようにも思えるが、実際に似たような事件があったという。黒沢監督は、リアルを追求するという選択肢もあった、とインタビューで語っていた。しかし「せっかくこれは映画なのだから、リアルではない場所までお客さんを連れていきたい」という思いで作品を作ったのだそうだ。
どこにでもあるような住宅配置、近所の公園、大学の教室、警察の取り調べ室…それらがどことなく不気味で、ちらっと映ると怖い場所に変わっていく。とりわけ不気味なのは、隣人の家。最初は違和感でしかなかった存在が、正常を装っていた隣人の素性が露わになるにつれ、はっきりと異常なものとしてスクリーンに映し出される。この過程は、サスペンスの域を越えて、最早ホラーである。
一方、『二重生活』では、大学院で哲学を学ぶ主人公が、卒論の題材として、教授に勧められた「理由なき尾行」を遂行する。その尾行する対象者Aは、たまたま街で見かけた見覚えのある隣人。主人公は、半信半疑で始めた尾行に没頭し、「なぜ人間は存在するのか、何のために生きるのか」そんな問いの答えを追い求めてゆく。
本作の原作者・小池真理子は、フランスの女性アーティスト、ソフィ・カルの著書「本当の話」に刺激されてこの物語を書いたという。ソフィ・カルは、尾行をテーマにした作品をいくつか発表しており、他人を尾行することのみならず、私立探偵に自身の行動を尾行させたこともあるそうだ。理由もなく、ただ尾行するなんて、そんなぶっ飛んだことをする女性がこの世には確かに存在していることに驚かされる。
非常識と言われてもおかしくない行為ではあるが、映画の主人公がこの「理由なき尾行」にのめり込む姿はとても自然に思えてくる。尾行の対象者Aは、はたから見れば幸せな家庭を持つエリート会社員。主人公は尾行をするにつれて彼の秘密を知ってしまう。どこかドキュメンタリー的に描かれる映像から、私たち観客はいつしか主人公の目線となって彼を追ってゆくのだ。この体験は、なかなかスリリングなものである。
遠いようで身近な存在、隣人。映画を観たら、ついつい隣人が頭を過ぎる…なんてことが、あるかもしれない。
さて、あなたは隣人の顔を、知っているだろうか?
二重生活
(2015年 日本 126分 ビスタ)
2016年10月29日から11月4日まで上映
■監督・脚本 岸善幸
■原作 小池真理子「二重生活」(角川文庫刊)
■撮影 夏海光造
■音楽 岩代太郎
■出演 門脇麦/長谷川博己/菅田将暉/リリー・フランキー/河井青葉/篠原ゆき子/宇野祥平/岸井ゆきの/西田尚美/烏丸せつこ
大学院の哲学科に通う平凡な大学生・珠は、担当の篠原教授から、ひとりの対象を追いかけて生活を記録する“哲学的尾行”の実践を持ちかけられる。その“理由なき尾行”に当初は迷いを感じていた珠が、ある日、偶然見かけたのは、マンションの隣の一軒家に美しい妻と娘とともに住む編集者の石坂。書店で作家のサイン会に立ち会う石坂がその場を去ると、珠も後を追うように店を出る。こうして、石坂を尾行する日々が始まった――。
フランスの女性アーティスト、ソフィ・カルの作品「本当の話」(平凡社刊)の「哲学的尾行」をモチーフに、直木賞作家・小池真理子が創作した長編小説「二重生活」。この原作をTVドラマ「ラジオ」(文化庁芸術祭大賞受賞)の映像作家・岸善幸が、大胆に脚色、独特の世界観を持って映画化に挑んだ。ヒロイン・珠を演じるのは、『愛の渦』『太陽』の門脇麦。本作が単独初主演となる。珠に尾行される石坂には、『シン・ゴジラ』の長谷川博己。そのほか、菅田将暉やリリー・フランキーなど多彩なキャストが揃った。
まるでドキュメンタリーを見ているかのようなリアルな映像に登場人物の視線が入り混じり、尾行による高揚感と胸騒ぎをスリリングに体感させてくれる。それぞれの“二重生活”の向こう側に見えてくる孤独が浮き彫りにされ、気付けば自らの日常が浸食されていく。これはひとりの女性の心の成長物語であると同時に、知的興奮を呼び覚ます、全く新しい心理エンターテインメントである。
クリーピー 偽りの隣人
(2016年 日本 130分 シネスコ)
2016年10月29日から11月4日まで上映
■監督・脚本 黒沢清
■原作 前川裕「クリーピー」(光文社文庫刊)
■脚本 池田千尋
■撮影 芦澤明子
■音楽 羽深由理
■出演 西島秀俊/竹内結子/川口春奈/東出昌大/香川照之/藤野涼子/戸田昌宏/馬場徹/最所美咲/笹野高史
■第66回ベルリン国際映画祭正式出品/第40回香港国際映画祭クロージング上映作品
犯罪心理学者の高倉は、刑事・野上から6年前に起きた一家失踪事件の分析を頼まれる。しかし事件唯一の生き残りである長女・早紀の記憶をたどるも、核心にはたどりつけずにいた。一方、高倉が愛する妻・康子と共に最近引っ越した新居の隣人は、どこか奇妙な家族だった。病弱な妻と中学生の娘・澪をもつ主人・西野との何気ない会話に翻弄され、困惑する高倉夫妻。そしてある日、澪が告げた言葉に、高倉は驚愕する。 「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です。」 未解決の一家失踪事件と、隣人一家の不可解な関係。2つの繋がりに高倉が気づいた時、康子の身に【深い闇】が迫っていた…。
第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、作家t・綾辻行人も「展開の予想できない実に気味の悪い(クリーピーな)物語」と絶賛した前川裕の原作小説を、『岸辺の旅』でカンヌ国際映画祭「ある視点」部門監督賞を受賞した名匠・黒沢清監督が待望の映画化! 西島秀俊、香川照之ら日本映画界を代表する豪華キャストを迎え、ある夫婦が“奇妙な隣人”への疑惑と不安から深い闇へと引きずり込まれていく圧倒的な恐怖を描く。
近所付き合いが希薄になった現代、誰の身にも起こりえる、日常に忍び寄る悪意。ベルリン国際映画祭や香港国際映画祭にも正式出品され、世界から注目を集める衝撃のサスペンス・スリラーが幕を開ける!