ぽっけ
今週上映するのは監督自身がプロデューサーを兼任するインディペンデント映画でありながら、2019年のロカルノ国際映画祭で重賞を分け合い、高い評価を得た作品です。当館でも2018年に特集上映を行なった『ヴァンダの部屋』のペドロ・コスタ監督と、『若き詩人』でデビューしてから一年に一本のペースで秀作を作り続けるダミアン・マニヴェル監督。どちらの監督も日本映画への多大な関心とシンパシーを持ちながら、独自の方法で商業主義的な映画製作のシステムから距離を取りながら創造的な活動を続ける作家たちです。
上映作品はリスボンへと出稼ぎに行ったまま帰ることなくこの世を去った夫を待ち続けた女性を描いた『ヴィタリナ』と、モダンダンスの祖の一人であるイサドラ・ダンカンが子供たちを亡くした悲痛さから生み出した「母」という演目を自らの身体を通じて現在に呼び起こす女性たちを描く『イサドラの子どもたち』。どちらの映画も喪失の痛みと向き合うことで映画の中でその存在を輝かせる人の姿を描いている作品です。
「子どもたちの死後、幾昼夜を蒼いカーテンのスタジオで過ごした。悲しみの中ダンスの創作を試みた。だが身体は微塵も動かない。あの忌むべき事故を美にかえられたら…」子供たちを事故でなくしたイサドラ・ダンカンが願いを込めて生み出したこの「母」という演目の振付を、舞踏符と呼ばれる難解な記号からダンスへと甦らせる若きダンサー。そのポーズの一つ一つに封じ込められた思いが解き放たれるようにダンサー自身の身体を媒介としながらわずかな仕草から伝播していきます。
ダミアン・マニヴェル監督はダンスの仕草やポーズが秘めている「かつてあったもの」すなわち今はもうなくなってしまったものをアクションによって、まるで生きているかのように現前させます。しかし同時にここに秘められた喪失の痛みもまた甦らせてしまうことには無自覚でいられません。鋭敏な感覚の観客に受け止められること。そしてそれがダンスの成立にとっては不可避なことであることもダンサー自身の口によって語られます。第三章に登場する老女が纏うあまりにも悲痛な美しさはおそらくイサドラ自身さえ想像もしなかったのではないでしょうか。
ヴィタリナがたった一人で初めてリスボンの空港に降り立ったとき、すでに夫の葬儀は終わり、何も残されてはいませんでした。夫が最期を過ごした部屋で、ヴィタリナは語り始めます。「あんた驚いた?まさか私が来るとはね。死ぬときも離れていたかった?私たちは1982年の12月14日に婚姻届を出し、1983年3月5日に挙式をした。あの光も愛も跡形もない。生きても死んでもあんたを信じない、あんたの体が墓場にも棺にも入ったところを見てないもの。死んだの?土の下にいるの?」
夫を待ち続けた時間から転がり込むようにまじり気のない苦悶のときを迎えたヴィタリナ。すでに亡くなる前から40余年も目の前にいなかった夫は、皮肉にもその持続によって今もヴィタリナを苦しめます。しかし同時にヴィタリナはそれに抗うことで自らを律し続けてきたのです。ペドロ・コスタ監督はこの映画撮影自体が喪の作業であるかのように、ヴィタリナとともに苦しみ、徹底的に不在である者への愛の手に負えなさ、現在というこの困難な時間と向かい合い続けます。ヴィタリナが愛についてつぶやく。その輝きについてここではあまり語らないようにしておきましょう。
喪失の傷みを伴う愛する人の「不在」の状態は、当然ながらかつて存在したものが現前しなくなってしまった状態を指します。視覚的に写し取ることではじめてその存在を知覚することが可能だと思われる写真や映像にとって「不在」の存在はただカメラを向けてシャッターを切るだけでは表現することができません。ましてやフィクションである映画にその存在が実在したことと、今はもういないこと。この2つのことが写されているということは決して起こらないはずなのです。それでもなお彼女たちの存在を疑わないのは何故でしょうか。まるで往年の映画スターのように、何度もスクリーンに映る彼女たちに会いたくなるのは何故でしょうか。映画作家たちはまるでそれだけが存在を伝える唯一無二の方法であるかのように彼女たちと真摯に向かい合います。その誠実さ、揺らがない意志が伝える強い信頼感。この映画を作った人たちやこの映画に出演した人物たちにもし会うことができたらと願わずにはいられません。愛する者の不在を通して映画の中でなお一層存在を輝かせる者たちの姿を、ぜひ豊饒な闇と光に包まれた映画館の空間で味わって頂ければと思います。
イサドラの子どもたち
Isadora's Children
■監督 ダミアン・マニヴェル
■製作 マルタン・ベルティエ/ダミアン・マニヴェル
■脚本 ダミアン・マニヴェル/ジュリアン・デュードネ
■撮影 ノエ・バック
■編集 ドウニャ・シショフ
■出演 アガト・ボニゼール/マノン・カルパンティエ/マリカ・リッジ/エルザ・ウォリアストン
■2019年ロカルノ国際映画祭 最優秀監督賞受賞
【2021年2月27日から3月5日まで上映】
太古より眠るダンスを 私の悲しみが 目覚めさせる
振付師のアガトはイサドラの自伝を読んでいる。自由に踊る子どもたちを、窓から愛おしそうに見つめている。図書室で見つけた舞踊譜と作曲家スクリャービンの音楽を手がかりに、「母」の踊りと向き合う。
「母」の公演を控えた若きダンサーのマノンは、振付師マリカと対話を重ねながら、自らのダンスを探している。マノンは、子どもと離れて暮らすマリカを案じている。やがて公演の日を迎える。
「母」を観劇したエルザは、ゆっくりとした足取りで帰路につく。ノートに記したイサドラの言葉を読み、部屋着に着替え、子どもの写真の前で香を焚く。街灯を遮ろうとカーテンに手を掛けたエルザは、その時…。
伝説のダンサー、イサドラ・ダンカン。彼女の遺したダンス「母」から生まれた、3つの喪失と再生の物語。
モダンダンスの始祖として知られるイサドラ・ダンカン(1877〜1927)。20世紀初頭、舞踊の世界に革命を起こした彼女は、1913年4月、二人の子供を事故で亡くし、その痛みに苦しみながら、亡き子どもたちに捧げるソロダンス「母」を創り上げた。それからおよそ100年の時を経て、現代に生きる4人の女性がイサドラの「母」と邂逅する――。
『若き詩人』『泳ぎすぎた夜』(五十嵐耕平との共同監督)が話題を呼んだフランスの俊英ダミアン・マニヴェルが、「母」を通してイサドラとつながる〈子どもたち〉の物語を、静かな緊張感をもって紡ぎあげる。イサドラの抱えた痛々しくも狂おしい愛が、女たちの身体を通して呼応し、世紀の時を超え、いま私たちに継承される。
悲しくも崇高な物語が、ミニマルな物語形式と情感溢れるカメラワークによって紡がれ、ロシアの作曲家アレクサンドル・スクリャービンの楽曲が美しく彩る。その先鋭的な映画手法は、コンテンポラリー・ダンサーとしても活躍した監督だからこそなしえたもの。それはダンス映画の枠を超え、一篇の詩のように私たちを魅了する。
ヴィタリナ
Vitalina Varela
■監督 ペドロ・コスタ
■製作 アベル・リベイロ・シャヴェス
■撮影 レオナルド・シモンエス
■編集 ジュアン・ディアス/ヴィトル・カルヴァーリョ
■出演 ヴィタリナ・ヴァレラ/ヴェントゥーラ/マヌエル・タヴァレス・アルメイダ/フランシスコ・ブリト/マリナ・アウヴェス・ドミンゲス/ニルサ・フォルテス
■2019年ロカルノ国際映画祭金豹賞・女優賞受賞/第20回東京フィルメックス特別招待作品
【2021年2月27日から3月5日まで上映】
わたしは、ずっとここであなたを待っている
ひとり、カーボ・ヴェルデからリスボンにやってきたヴィタリナ。彼女は出稼ぎに行った夫がいつか自分を呼び寄せてくれると信じて待ち続けていた。しかし、夫は数日前に亡くなり、すでに埋葬されていた。ヴィタリナは亡き夫の痕跡を探すかのように、移民たちが暮らす街にある、夫が住んだ部屋に留まる決意をする。そして、その部屋の暗がりで自らの波乱に満ちた人生を語り始める――。
カーボ・ヴェルデからの移民女性がロカルノ国際映画祭女優賞受賞の快挙! 鬼才ペドロ・コスタの新たな出発点
彼女の名前はヴィタリナーー。自身の名前と同じ主人公を演じたヴィタリナ・ヴァレラ。虚実の狭間で自らの半生を言葉に託し、語りかけるその存在感は見る者を圧倒し、ロカルノ国際映画祭で女優賞を受賞した。
監督は、世界を驚愕させた『ヴァンダの部屋』から一貫して移民街フォンタイーニャスを舞台に作品を作り続けているペドロ・コスタ。ひとりの女性の苛酷な人生を暗闇と一条の光の強烈なコントラストで描き、ロカルノ国際映画祭で最高賞の金豹賞を受賞。その新たな出発点として絶賛され、世界中の映画祭が招待、リスボンでは多くの女性たちの共感を呼び公開わずか1ヶ月で2万人を動員するヒットを記録した。