ミ・ナミ
今週の早稲田松竹は、『TAR/ター』『ザ・ホエール』の二本立てです。 この二作品を観た後、私は深く悩みました。作品に登場する主人公に、一体どのように心を寄せるべきなのかわからなかったからです。
『TAR/ター』のリディア・ターは、ベルリン初の女性マエストロとして、圧倒的カリスマ性を誇る魅力的な人物として登場します。天才的かつ繊細な手腕と自己演出に長けており、マーラーの交響曲第5番のライブ録音を控えてキャリアの絶頂期にあります。パートナーの女性や養子の娘へも優しく労りを忘れない。おそらくこのステイタスへ登り詰めるまでにたゆまぬ努力があったことでしょう。一方、ターよりも立場の弱い存在に対しては、静かでありながら容赦のない抑圧で相手を追い詰める姿が映し取られています。アグレッシブで単純な暴力をぶつけるというのではなく、上品な口調とインテリジェンスで徐々に相手の言葉と感情を巧妙に封じ込めていくのです。時には性的な侮蔑をはさんだり、自分よりも若い女性をことさらに重用するさまも、私たち女性にとっては暗い既視感を呼び覚まします。
『ザ・ホエール』の主人公である教師のチャーリーは、自殺した恋人アランへの喪失感を埋めようと過食を繰り返し、今では歩行器をつけなければ歩けないほど。体重の増加で病状も悪化しながらも入院を拒んでいます。別れた妻の元にいる娘からは「家族を捨てた」と罵られ、世話をしてくれているアランの妹も、自棄的な生き方をするチャーリーを持てあまし気味。ただただ死ぬその瞬間を待っているだけなのです。その自罰的な姿は痛々しいというだけではありません。彼を身近で大切に思う人たちをどうしようもなく寂しい思いにさせているという意味で、他者を傷つけているようでもあります。
二人の生き方に差はあれど、ともに言えるのは自己という魔物に見入られてしまっているということです。世界には自分だけではなく、他者の存在がある。そんな単純な摂理を忘れてしまっています。優秀、天才、絶望、孤独。ターとチャーリーがそこにいたるまでの理由は一様には言えませんが、閉じた世界で己だけをみつめていると、いわば怪物のようになってしまうのではないでしょうか。そして、二人に名状しがたい思いを抱く私もまた、近しい存在なのだと思います。
二人のような、哀れで、愚かな“自己の魔物”にならないためにどうしたらいいのか。そう考えていたとき、ある友人の言葉が私をハッとさせました。
「自分で持つことが大変な大きく重い荷物を、誰かに預けようと頼ることができるかどうか」
周りに誰かの手があるのだと気づくこと。それだけが、自分自身を魔物から救い出す方法なのかもしれません。
TAR/ター
Tár
■監督・製作・脚本 トッド・フィールド
■製作 アレクサンドラ・ミルチャン/スコット・ランバート
■撮影 フロリアン・ホーフマイスター
■編集 モニカ・ヴィッリ
■プロダクション・デザイン マルコ・ビットナー・ロッサー
■衣装 ビナ・ダイヘレル
■音楽 ヒドゥル・グドナドッティル
■出演 ケイト・ブランシェット/ノエミ・メルラン/ニーナ・ホス/ソフィー・カウアー/ジュリアン・グローヴァー/アラン・コーデュナー/マーク・ストロング
■2022年ヴェネチア国際映画祭女優賞受賞/2023年アカデミー賞作品賞・監督賞・主演女優賞ほか3部門ノミネート/ゴールデン・グローブ賞女優賞受賞・作品賞・脚本賞ノミネート/全米批評家協会賞作品賞・脚本賞・女優賞受賞/英国アカデミー賞主演女優賞受賞・作品賞ほか3部門ノミネート ほか多数受賞・ノミネート
© 2022 FOCUS FEATURES LLC.n
【2023/9/9(土)~9/15(金)上映】
旋律、栄光、絶望、狂気
世界最高峰のオーケストラの一つであるベルリン・フィルで、女性として初めて首席指揮者の座を掴み、天才的な能力と、類稀なるプロデュース力で、自身を輝けるブランドとして作り上げることに成功したリディア・ター。本の出版やマーラーの交響曲第5番のライブ録音を控え、キャリアの絶頂にある彼女だが、創作者として、指揮者としての壁に苦しんでいた。そんな時に、ターのもとに届いたある一報をきっかけに、彼女の完璧な世界は少しづつ崩れ始めるーー。
ベルリンフィル初の女性マエストロ〈リディア・ター〉、芸術と狂気がせめぎ合い、怪物が生まれる。
監督と脚本は、これまで手掛けた長編映画『イン・ザ・ベットルーム』『リトル・チルドレン』が、2作ともにアカデミー賞脚色賞にノミネートされたドット・フィールド。16年ぶりとなる全世界待望の最新作である本作は、フィールド監督がその鋭敏な表現力によって「唯一無二のアーティスト、ケイト・ブランシェットに向けて書いた」と語る、絶対的な権力を振りかざす天才指揮者リディア・ターの物語。本作ではアカデミー賞作品賞をはじめ6部門にノミネートされるなど世界の映画賞を席巻した。崇高なる芸術と、人間の欲望と狂気が、誰も聴いたことのない禁断の交響曲を奏でる驚愕のサイコスリラー!
主演は4度目となるゴールデン・グローブ賞、ヴェネチア国際映画祭女優賞など名誉ある賞を次々と制したケイト・ブランシェット。絶対的な権力を振りかざす天才的な指揮者リディア・ターを演じ、自身の最高傑作を塗り替えたと評された。ドイツ語、アメリカ英語をマスターし、ピアノと指揮をプロフェッショナルから本格的に学び、すべての演奏シーンを自身で演じきった。本物のクラシック世界を描くために指揮者ジョン・マウチェリが脚本の監修を務め、撮影はドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で行われた。音楽は『ジョーカー』でアカデミー賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティル。クラシック音楽映画にジャズと民族音楽を忍ばせ、独自の世界観を構築した。
ザ・ホエール
The Whale
■監督 ダーレン・アロノフスキー
■製作 ダーレン・アロノフスキー/アリ・ハンデル /ジェレミー・ドーソン
■原案・脚本 サミュエル・D・ハンター
■撮影 マシュー・リバティーク
■編集 アンドリュー・ワイスブラム
■美術 マーク・フリードバーグ /ロバート・ピゾーチャ
■衣装 ダニー・グリッカー
■音楽 ロブ・シモンセン
■出演 ブレンダン・フレイザー/セイディー・シンク/ホン・チャウ/タイ・シンプキンス/サマンサ・モートン
■2023年アカデミー賞主演男優賞賞・メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞/ゴールデン・グローブ賞男優賞ノミネート/放送映画批評家協会賞主演男優賞受賞・若手俳優賞・脚色賞・ヘア&メイクアップ賞ノミネート/英国アカデミー賞主演男優賞・助演女優賞・脚色賞・メイクアップ&ヘアー賞ノミネート/2022年ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門正式出品
© 2022 Palouse Rights LLC. All Rights Reserved.
【2023/9/9(土)~9/15(金)上映】
僕は信じたかった。
恋人アランを亡くしたショックから、現実逃避するように過食を繰り返してきたチャーリーは、大学のオンライン講座で生計を立てている40代の教師。歩行器なしでは移動もままならないチャーリーは頑なに入院を拒み、アランの妹で唯一の親友でもある看護師リズに頼っている。
そんなある日、病状の悪化で自らの余命が幾ばくもないことを悟ったチャーリーは、離婚して以来長らく音信不通だった17歳の娘エリーとの関係を修復しようと決意する。ところが家にやってきたエリーは、学校生活と家庭で多くのトラブルを抱え、心が荒みきっていた…。
異色の室内劇×壮絶な心震わすヒューマン・ドラマ
鬼才ダーレン・アロノフスキー監督の『マザー!』以来5年ぶりの最新作は、2012年に初上演された舞台劇「ザ・ホエール」の映画化。離婚後疎遠だった娘との絆を取り戻したいと願う主人公の“最期の5日間”を、ワン・シチュエーションの室内劇という様式で映し出す。『ハムナプトラ』シリーズなどでハリウッドのトップスターに昇りつめながらも、心身のバランスを崩して表舞台から遠ざかっていたブレンダン・フレイザーが奇跡的な復活を遂げ、主人公である体重272キロの孤独な中年男性を演じている。
生きることについての根源的な問いかけをはらみ、緊迫感みなぎるストーリー展開で観る者を魅了する本作は、アロノフスキー監督作品としては『ブラック・スワン』以来最高の北米オープニング成績を叩き出し、フレイザーの驚嘆すべき演技に多くの絶賛の声が寄せられ、ブロードキャスト映画批評家協会賞にて主演男優賞を受賞、さらに全米俳優組合賞(SAG)、英国アカデミー賞(BAFTA)でもノミネートが続き、ついにアカデミー賞主演男優賞を受賞した。その他にもセイディー・シンク、ホン・チャウ、サマンサ・モートンら豪華俳優陣が脇を固め、未だかつてないほどに心を揺さぶる物語が生まれた。