1898年、東京生まれ。1929年、監督助手として日活向島撮影所に入社。1923年『愛に甦る日』で監督デビューを飾る。関東大震災のため京都の日活大将軍撮影所に移り、以後京都を中心に活動を行っていく。1926年『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』で注目され、1932年『滝の白糸』、1936年『浪華悲歌』『祇園の姉妹』、1939年『残菊物語』と、リアリズムに裏打ちされた傑作を次々と完成させる。戦後は長いスランプに陥るが、1952年『西鶴一代女』でヴェネチア国際映画祭国際賞を受賞、見事に復活を遂げる。
大映専属となった1953年、『雨月物語』でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞。翌54年『山椒大夫』で再び同映画祭銀獅子賞を受賞。三年連続でヴェネチア国際映画祭受賞という偉業を成し遂げて、世界中に「ミゾグチ」の名を轟かす。『近松物語』、『新・平家物語』など傑作を連発するが、55年頃から体調を崩し、56年8月に急逝。享年58歳。その年に公開した『赤線地帯』が遺作となった。
溝口は監督生活34年で約90本を完成させたが、現存するのは30数本のみである。
1923年
・愛に甦る日
・故郷
・青春の夢路
・情炎の巷
・敗惨の唄は悲し
・813
・霧の港
・廃墟の中
・夜(第一篇・第二篇)
・血と霊
・峠の唄
1924年
・哀しき白痴
・暁の死
・現代の女王
・女性は強し
・塵境
・七面鳥の行衛(ゆくえ)
・伊藤巡査の死
・さみだれ草紙
・恋を断つ斧
・歓楽の女
・曲馬団の女王
1925年
・噫特務艦関東
・無銭不銭
・学窓を出でて
・大地は微笑む
・白百合は嘆く
・赫い夕陽に照されて
・ふるさとの歌
・小品映画集・街上のスケッチ
・人間(前・後篇)
・乃木大将と熊さん
1926年
・銅貨王
・紙人形春の囁き
・新説己が罪
・狂恋の女師匠
・海国男児
・金
1927年
・皇恩
・慈悲心鳥
1928年
・人の一生 人間万事金の巻(第一篇)
・人の一生 浮き世は辛いねの巻(第二篇)
・人の一生 クマとトラ再会の巻(第三篇)
・娘可愛や
1929年
・日本橋
・朝日は輝く
・東京行進曲
・都会交響楽
1930年
・ふるさと
・唐人お吉
1931年
・しかも彼等は行く(前・後篇)
1932年
・時の氏神
・満蒙建国の黎明
1933年
・滝の白糸
・祇園祭
1934年
・神風連
・愛憎峠
1935年
・折鶴お千
・マリアのお雪
・お嬢お吉
・虞美人草
1936年
・初姿
・浪華悲歌
・祇園の姉妹
1937年
・愛怨峡
1938年
・露営の歌
・あゝ故郷
1939年
・残菊物語
1940年
・浪花女
1941年
・芸道一代男
・元禄忠臣蔵 前篇
1942年
・元禄忠臣蔵 後篇
1944年
・団十郎三代
・宮本武蔵
1945年
・名刀美女丸
・必勝歌
1946年
・女性の勝利
・歌麿をめぐる五人の女
1947年
・女優須磨子の恋
1948年
・夜の女たち
1949年
・我が恋は燃えぬ
1950年
・雪夫人絵図
1951年
・お遊さま
・武蔵野夫人
1952年
・西鶴一代女
1953年
・雨月物語
・祇園囃子
1954年
・山椒大夫
・噂の女
・近松物語
1955年
・楊貴妃
・新・平家物語
1956年
・赤線地帯
溝口健二の映画を観てみよう。
仮に、小津安二郎や成瀬巳喜男の現代劇、黒澤明の時代劇なら、わたしたちは比較的簡単に感情の拠り所や、見覚えのある場所、聞いたことのある音や道具の使い方に気づくことができる。
彼の映画だけ、特別な道具を使っているわけではない。しかし、その手つきや仕草に秘められている隠喩的なニュアンスは、私たちの時代との共通点よりはむしろ、異なった時代にあったかもしれない、生活の匂いや情動を浮き立たせる。
『祇園の姉妹』で、その街の人々の暮らしぶりを見せる。路地を行けば、街の音が広がっていくのが聞こえる。 物売りの声、京都訛、商人たちと芸妓たち。いつしか姉妹二人の性格や考え方の違いが、その職業、その性分が私たちとの間で焦点を結び、祇園という街が姿を現すとき、突如として目の前に立ちはだかる、社会と彼女たちを運命的に隔てる障壁。
『雨月物語』の立身出世を目指す男たちと、それを支える妻や子供。一つの価値が転がり、陶器が銀貨に変わる。銀貨が具足、酒や着物に変わる。成功を掴み、それが名声や欲望になったとき、男たちは女たちの前からすでに消えていた。価値転倒の滑らかな推移を、わたしたちと現実とのわずかな隙間に入り込み、存在と夢との結びつきを暴いた。
『元禄忠臣蔵』は、太平洋戦争直前に封切られ、大衆からほとんど観られることがなかった。戦後GHQから上映を禁止されていた「復讐」の物語。忠臣蔵。その中で、真山青果の原作をとり「討ち入りシーンのない」忠臣蔵は、溝口健二の忠臣蔵ただ一つ。
日本の武士道と当時の軍国主義の、そして尊皇思想と国民感情の結び目を、自分の作家的な意志を曲げることなく、溝口健二は国策映画・戦意高揚映画として、莫大な予算をかけて製作されたこの作品でやってのけた。
それはもちろん国家主義的な映画として観られるべきではなく、むしろ個人と社会の間の感情や、日本社会に内在する階級や関係の力学を映すことに成功した数少ない例として観られるべきだ。ここには溝口健二が目指していた国民映画。日本映画だけの物語と大衆が映されている。
溝口健二の映画に現れる人物たち。貧乏人や芸人。没落して、人として扱われることもなくなってしまう者。彼らが野心や感情にまみれることで、社会に着せられた穢(けが)れ。いくつもの苦難を乗り越えて、彼らがそれを振り払い、その清々しい感情を露わにするとき、同時に、彼らの姿は個人と社会に作用している力の関係が、常に不定であるということを証明する。
溝口健二の映画。
日本固有の映画表現を目指し、まだ目覚めたばかりの日本映画を完成させた映画。
今週は、年末から元旦にかかる特別な一週間。
早稲田松竹では、溝口健二特集『祇園の姉妹』『雨月物語』『元禄忠臣蔵 前篇』『元禄忠臣蔵 後篇』の四本を上映します。
賀正。
祇園の姉妹
(1936年 日本 69分 SD/MONO)
2015年12月26日-12月28日
■監督・原作 溝口健二
■製作 永田雅一
■脚本 依田義賢
■撮影 三木稔
■編集 坂根田鶴子
■出演 山田五十鈴/梅村蓉子/志賀廼家弁慶/久野和子/大倉文男/深見泰三/進藤英太郎/いわま桜子/林家染之助/葵令子/滝沢静子/ 橘光造
★3日間上映です。
古風な人情家の姉・梅吉と、現代的打算的な妹・おもちゃは、京都の色町祇園乙部で働く芸妓姉妹。零落した昔馴染みの古沢を家に居候させてやるような姉の生き方に反発をおぼえたおもちゃは、古沢を家から追い出し、呉服屋の番頭・木村を騙して梅吉の着物を作らせ、財力のある骨董屋・聚楽堂を梅吉の旦那にあてがおうと企む。芸者でありながら逆に男を手玉に取ろうとするおもちゃの策略は最初、うまく行くように思えたが・・・。
名女優・山田五十鈴主演の人間喜劇。封建社会に従順な姉と、批判的で独立心の強い勝気な妹の対比を通して、日本社会に色濃く残る封建的性格をあぶり出し人間の愚かさを描いた。日本映画に真のリアリズムを確立したとされ、公開当時から絶賛された戦前の代表作。オリジナルは90分強であったが現存フィルムは一部が欠落した69分である。
雨月物語
(1953年 日本 97分 SD/MONO)
2015年12月26日-12月28日
■監督 溝口健二
■原作 上田秋成
■製作 永田雅一
■脚本 川口松太郎/依田義賢
■撮影 宮川一夫
■美術 伊藤熹朔
■編集 宮田味津三
■音楽 早坂文雄
■出演 京マチ子/水戸光子/田中絹代/森雅之/小沢栄/毛利菊枝/青山杉作/羅門光三郎/香川良介/上田吉二郎/南部彰三/天野一郎
■1953年ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞受賞
★3日間上映です。
琵琶湖周辺に荒れくるう羽柴、柴田間の戦火をぬって、北近江の陶工源十郎はつくりためた焼物を捌きに旅に出た。従者の妻・宮木と子の源市は戦火を怖れて引返し、義弟の藤兵衛はその女房阿浜を捨てて通りかかった羽柴勢にまぎれ入った。
合戦間近の大溝城下で、源十郎はその陶器を数多注文した上臈風の美女・若狭にひかれる。しかし彼女は織田信長に滅された朽木一族の死霊だった。一方、戦場のどさくさまぎれに兜首を拾った藤兵衛は、馬と家来持ちの侍に立身する。しかし街道の遊女宿で白首姿におちぶれた阿浜とめぐりあい、涙ながらに痛罵されるのだった。
上田秋成の「雨月物語」全9篇のうち「蛇性の婬」「浅茅が宿」の2つを採り、さらにモーパッサンの「勲章」を加えて、川口松太郎、依田義賢が共同脚色。戦乱と欲望に翻弄される人々を、幽玄な映像美の中に描く。各映画誌のオールタイムベストに常に上位にランクインし、世界中の巨匠たちから愛される傑作。ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞受賞。
元禄忠臣蔵 前篇/後篇
(1941-1942年 日本 前篇・112分/後篇・111分 SD/MONO)
2015年12月29日-2016年1月1日
■監督 溝口健二
■総監督 白井信太郎
■原作 真山青果
■脚本 原健一郎/依田義賢
■撮影 杉山公平
■美術 水谷浩
■編集 久慈孝子
■建築監督 新藤兼人
■音楽 深井史郎
■出演 河原崎長十郎/中村翫右衛門/河原崎国太郎/高峰三枝/山岸しず江/三浦光子/小杉勇/市川右太衛門子
★4日間上映です。
元禄14年3月。江戸城にて勅使奉答の儀式が執り行われる日に、播州赤穂の城主浅野内匠頭は、松の廊下で高家旗本吉良上野介に斬りかかり、切腹の処分を受ける。悲報を受けた国許の赤穂城は籠城か開城で紛糾していたが、国家老大石内蔵助は開城を宣言する。
開城後内蔵助は山科に隠棲し、元家臣たちから忠義の心も忘れ果てたと罵られていた。しかしそれは世間を欺く為のものであり、本当は上野介討ち取りを決意していた。元禄15年12月。大石内蔵助は浅野内匠頭の未亡人瑶泉院に別れの挨拶に行き、自分の詠んだ歌と称し服差包みを残し立ち去った。その夜、瑶泉院のもとに吉良への討ち入り成功の知らせが届くのだった・・・。
青山清果の連作戯曲の映画化で、長回しの撮影法が最も突き詰められた溝口中期の大作。綿密な時代考証に基づいた建築と衣裳が賞賛された。アメリカとの関係が悪化し物資不足の始まっていた時に、前後篇合せて100万円以上の費用が使われたという。後のすべての「忠臣蔵」映画に範を示したといわれる「原寸大の松の廊下」のセットがあまりにも有名。建築監督を新藤兼人が担当している。