人には歴史がある。それが本や映画で描かれるように劇的なものでなかったとしても。
そうは言っても、身近である祖父母のような存在でさえ、過去から現在へと続く物語を、今なお生きているということを、ある実感をもって考えられるようになったのは最近になってからだ。
ある歴史についての覚書を「世界の歴史はことによると一握りの隠喩の歴史なのかもしれない」と書き始めたのは、アルゼンチン、ブエノスアイレスの迷宮の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスだった。記述された歴史に“表されない”ものは多い。膨大な量の書物に記されているであろう戦争の記録でも、過去の狭間に隠された一人の人物を充分には語り得ない。その瞬間を目撃した者の記憶のなかにしか残らない、その時間はどこへ落ちていったのか。
“年老いた男が、一人きりで食事をしている”
『瞳の奥の秘密』の監督ファン・ホセ・カンパネラが、原作小説を読んでいる自分の頭の中に付きまとって離れなかったと語るこのイメージ。この年老いた男は、自分に問うただろうか?なぜ自分がバーで隣りには誰もおらずに、たった一人きりで食事をするようになったのか。その記憶を否定したり、忘れたり、しばらくの間だけ蓋をすることは可能だけれど、過去は常に襲いかかるものだ。
主人公は、小説を書き始めた。25年もの年月を経ても解決しない、自分や周りの人の身に起きたある出来事。何度も自分の記憶をなぞりながら、ほんの少しの空想を織り交ぜて書きすすんでいくことは、空白の時間を動かし始めることだった。さもなければ人生に幕を下ろすように、ずっと孤独に人生を終えることなんて出来るだろうか?
『アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち』の中でマエストロたちに語られるタンゴの歴史には、「追憶」「郷愁」という言葉では表しきれないニュアンスがある。いわば記憶が躍動しているとでも言うような感動(エネルギー)。ここには、楽譜には記されていない秘密がある。「音楽と歌と踊り」三つ揃いのドラマを、演奏を巡る歴史とともに、なぞっては再発見し続けるマエストロたちの輝きは過去の音楽の再演などではなく、情熱の本質を私たちに伝えてくれるものに違いない。
未だ記されてないもの、表されないものの中に秘密がある。秘密はとても強いメッセージだ。人はありとあらゆる姿形のなかにメッセージを潜ませることができるということを、アルゼンチンからの贈り物は気づかせてくれる。秘密は秘密のまま。記憶は記憶のまま。過去は過去のままにメッセージは躍動している。(ぽっけ)
アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち
CAFE DE LOS MAESTOROS
(2008年 アルゼンチン 92分 ビスタ/SRD)
2011年1月15日から1月21日まで上映
■監督 ミゲル・コアン
■製作 グスターボ・サンタオラヤ/リタ・スタンティック
■製作総指揮 ウォルター・サレス
2006年、ブエノスアイレスの最も古いレコーディングスタジオで、アルゼンチンタンゴの黄金時代を築いたスター達が感動的な再会を果たした。 彼らはアルバム「CAFE DE LOS MAESTROS」に収録する名曲を歌うためにこの場所にやって来たのだった。 60〜70年もの演奏歴をもち、いまなお現役で輝き続ける、まさに国宝級とも言えるマエストロたち。なけなしの金で父が買ってくれたバンドネオン、街角のカフェから成功の階段をともに上った仲間たち、亡き師への変わらぬ熱い思い。彼らの人生のすべてがタンゴという3分間のドラマに刻まれていく。
「タンゴという芸術を生み出したマエストロたちと一緒に仕事が出来たことは、私の人生において最高の出来事の一つとなった」と語るのは、2006年ラテン・グラミー最優秀アルバム賞を受賞したアルバム「CAFE DE LOS MAESTROS」、そして本作を企画した、世界的な音楽家グスタボ・サンタオラージャ(『ブロークバック・マウンテン』『バベル』でアカデミー作曲賞を受賞)。 そしてエグゼクティブ・プロデューサーには『モーターサイクル・ダイアリーズ』のウォルター・サレス監督を迎え、音楽と映画の最高のスタッフが伝説をつくりだした。
ミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座に並ぶ世界三大劇場のひとつであるブエノスアイレスのコロン劇場。真夏の一夜、タンゴの歴史をつくりあげた偉大なるマエストロたちが一堂に会したそのとき、奇跡のステージの幕が開く!
瞳の奥の秘密
EL SECRETO DE SUS OJOS
(2009年 スペイン/アルゼンチン 129分 シネスコ/SR)
2011年1月15日から1月21日まで上映
■監督・製作・脚本・編集 フアン・ホセ・カンパネラ
■原作・脚本 エドゥアルド・サチェリ
■撮影 フェリックス・モンティ
■音楽 フェデリコ・フシド
■出演 リカルド・ダリン/ソレダ・ビジャミル/パブロ・ラゴ/ハビエル・ゴディーノ/カルラ・ケベド/ギレルモ・フランセーヤ
■アカデミー賞外国語映画賞
刑事裁判所を定年退職したベンハミン・エスポシトは、仕事も家族もない孤独な時間と向きあっていた。彼は残りの人生で、25年前の殺人事件を題材に小説を書こうと決心し、久しぶりに当時の職場を訪ねる。彼の元上司でかつての判事補、イレーネ・ヘイスティングスが彼を迎える。相変わらず美しく聡明だが、今では検事に昇格し、二人の子供の母親だった。
タイプライターを前に自分の人生を振り返るベンハミンに、イレーネの存在が鮮やかに甦る。いまだに過去に生きる自分と決別するために、彼は事件の裏側に潜む謎と、今も変わらぬイレーネへの想いに向き合うことを決意する。忘れもしない、25年前の残酷な事件とは?そして、ベンハミンは失った歳月を取り戻すことができるのだろうか?
未解決事件と秘められたロマンスとを交差させ、主人公の半生を浮き彫りにした本作。これは、単なるミステリーではない。犯罪ドラマでもない。その形を借りた愛の物語だ。犯人を追う男、妻を殺された男…立場の違う二人だが、同じように愛の不在に耐えながら、執念とも呼ぶべき愛の灯火を燃やし続けている。完結されたかに見えた物語は、結末を迎えてはいなかった。衝撃的のラストで加筆される真実は、観客の心に深く刻まれることになるだろう。