晩春は1949年、秋刀魚の味は1962年に撮影された作品だ。
この間、約13年の歳月が流れているわけだが、テーマはものすごく同じところにある。
年頃の娘を嫁にと送り出す父、人間の歴史がはじまって以来の永遠のテーマである結婚。
めでたいことなのだが親の立場の心境は複雑で、手放しで喜べるものではないようだ。

晩春
(1949年 日本 108分)
2008年12月27日から2009年1月2日まで上映 ■監督 小津安二郎
■出演 原節子/笠智衆/月丘夢路/三宅邦子/杉村春子/桂木洋子/宇佐美淳/三島雅夫

「晩春」、第42作。元になったのは広津和郎が10年前に発表した短編小説「父と娘」である。娘の結婚=親子の別れ、というシチュエーションは、小津映画のもっとも重要なモチーフと言える。

舞台は「鎌倉の家」。小津が生きた街、東京の文化圏だ。父の東大教授曾宮周吉(笠智衆)と娘の紀子(原節子)が一緒に暮らす。父を含め周りの人々は紀子がお嫁に行かないことを気にしている。ただ当の本人は父との今の生活に何の不満も感じておらず、むしろ父親離れができないでいる。

紀子と父の助手の服部が自転車で湘南海岸へ出かけるシーンで、二人は恋人関係なのかと思いきや、服部には別の婚約者がいる。これには父周吉も拍子抜けだ。

自転車のシーン、紀子役の原節子は終始笑顔、この笑顔がなんとも印象的。海沿いには現在の湘南とは違い、何もない。今でこそ道は舗装され、店が立ち並び、サーファーであふれかえっている湘南。サーフィンという文化さえない古き良き日本の中に、コカコーラの看板が一つ。時代が過渡期であることをあらわしている。

父と娘は東京へとよく出かける。紀子が上野で久しぶりに会った周吉の友人小野寺。彼が再婚することを紀子は不潔だと感じる。なんとも古風な思考回路である。そののち父までもが再婚するという話を聞かされると、紀子は父にまで反感を抱く。だがそれは父親離れしない紀子のために周吉がついた一世一大の嘘だったのだ。

その嘘をつくシーン、小津の代名詞ともいえる切り返しという撮影手法が使われていて、なんとも独特な「間」を生んでいる。笠智衆の温かみのある演技が伴った名シーンだ。結局すったもんだしたあとに紀子はお見合い結婚することになるのだが。男からしてみれば面倒くさいとも思える微妙な女心を小津はこまやかに表現しており、原節子の演技力とルックスによって完成しうる「晩春」という映画。京都旅行で父と娘が布団を並べて語らうシーンは伝説となっている。原節子の表情に要注目だ。

この作品には壷カット論争というのがあるらしいのだが、旅館の壷がぬいて映されるその意味やいかに。監督が亡くなって答えが闇の中なので論争に発展したのだろうが、いくら論じても答えは闇の中。壷が映っているのも暗い闇の中。

結婚式が終わり、父周吉はひとり家に帰りリンゴの皮を剥く。うなだれる。父と娘の別れ。永遠のテーマだ。何も死に別れることでもないから大げさに考えなくても、と思うが、当事者にとっては感慨深いものなのだろう。


このページのトップへ

秋刀魚の味
(1962年 日本 112分)
2008年6月28日から7月4日まで上映 ■監督 小津安二郎
■出演 岩下志麻/笠智衆/佐田啓二/岡田茉莉子/吉田輝雄/牧紀子/三上真一郎/中村伸郎/東野英治郎

「秋刀魚の味」 第54作。この年の二月、小津の母が亡くなった。独身者の小津にとって最愛の母。そしてこの作品が結果的に彼の遺作になってしまう。

川崎の工場地帯。平山の事務所に、同窓の河合が入ってくる。河合は平山に、娘の路子の縁談話を持ちかけた。この作品もやはり「晩春」と同じで年頃の娘を嫁にやろうとする父が主人公であり、それをめぐるストーリーが柱となっている。

しかし、「晩春」と違う点を挙げれば、路子に兄弟がいるという点である。父と娘一対一のやり取りよりも、どこかしら気がまぎれるというか、明るさが漂う。また、主人公の同窓生がこの作品のユーモア、悲哀感を助長している。

ヒョウタンというあだ名の中学時代の恩師を囲み同窓会が企画される。同窓生が立身出世をしている反面、ヒョウタンはさびれたラーメン屋で働く。娘も婚期を逃して独身でいる。なんという切なさであろうか。同窓生はヒョウタンに見舞金を送ろうと企てる。そのラーメン屋で平山は軍艦に乗っていたころの部下に出くわす。

戦後という時代だ。一緒に行ったバーでは軍艦マーチが流れる。豊かになってきた時代に平山達とヒョウタンの対比のように貧富の差が生まれていることも描かれているのだろう。結局路子には好きな男性がいたのだが、すれ違いで叶わず、お見合いをすることになる。 そして結婚式の終わった夜、父は脱力感と悲哀に暮れるのだった。

「晩春」と「秋刀魚の味」、同じテーマのようで全く違う表現がされている。この間、約13年。時代は流れ、小津も変わったのであろう。これから新しい流れが期待できるというところでの他界。残念である。

巨匠よ、永遠なれ。そして生まれてくれてありがとう。

(ラオウ)


このページのトップへ