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「私の望みは、本を読むのと同様の映画を作ることで、小説を読むのと同じぐらいに観客に想像の自由が残されていることです。映像の周囲に、映像の背後に、そしてさらに映像の内部に、観客が、スクリーンの魔力を受けながら,想像力をはばたかせることができることです」

レネの作品には、いつも(本人が語るところの)「想像の自由」という余白が潜む。
その余白は、私たちの意識を問う。
戦争は終わったかもしれないが、こんなにも生々しく残る傷痕を、
私たちはどのように見つめたらよいのだろう。

月間特集:戦争の爪痕、
3週目はアラン・レネ監督特集。
徹底したドキュメンタリストの眼差しで鮮やかに映像化された、
戦争にまつわる、「時間」と「記憶」についての3作品です。

1922年生まれ、フランス出身。ヌーヴェル・ヴァーグ時代の“セーヌ左岸派”の代表として知られる。

子どもの頃から映画に熱中し、映画高等研究所で学んだ。1945年から兵役に就き、除隊後に16ミリで美術を中心にした短編を撮り続ける。

48年の短編“Van Gogh”が翌年のアカデミー短編賞を受賞、55年の『夜と霧』で一躍名を知られるようになる。

59年、初の長編『二十四時間の情事』が世界的に反響を呼んだ。以後『去年マリエンバートで』、『ミュリエル』などを発表、『去年マリエンバートで』はヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。

・ヴァン・ゴッホ(1948)《未》*短編
・ゴーギャン(1950)《未》*短編
・ゲルニカ(1950)《未》*短編
・彫像もまた死す(1954)《未》*クリス・マルケルと共同監督
夜と霧(1955)*短編
・世界の全ての記憶(1956)《未》*短編
・アトリエ15の記憶(1958)《未》*短編
・スティレンの唄(1958)《未》*短編
二十四時間の情事(1959)
・去年マリエンバートで(1960)
ミュリエル(1963)
・戦争は終わった(1965)
・ベトナムから遠く離れて(1967)*共同監督
・薔薇のスタビスキー(1973)
・プロビデンス(1977)
・アメリカの叔父さん(1980)
・メロ(1986)
・お家に帰りたい(1989)
・スモーキング/ノースモーキング(1955)《未》
・恋するシャンソン(1997)
・巴里の恋愛狂想曲(コンチェルト)(2003)

(1963年 フランス 117分)
■監督 アラン・レネ
■原作・脚本 ジャン・ケイヨール

■出演 デルフィーヌ・セイリグ/ジャン=バティスト・チェーレ/ジャン=ピエール・ケリアン/ニタ・クライン


舞台はフランスの北部にある港町、ブローニュ。骨董商を営む未亡人エレーヌはアルジェリア戦争から戻った義理の息子、ベルナールと暮している。あるときエレーヌはふとした気まぐれでかつての恋人、アルフォンスを手紙で呼び寄せると、アルフォンスは姪と偽って若い女を伴ってあらわれる。一方ベルナールはアルジェリアの嫌な思い出、ミュリエルという女性をめぐる、自らも共犯だった暴虐の記憶に悩まされていた。

大戦中、激しい空襲で破壊されたブローニュの街は、いまや急ピッチで再建されている。過去の傷の上に構築される、新しい建物。時は流れ、すべては忘れ去られ、改められていく。破壊された後に新たに作り直される、この街のように。昨日の戦争も、過去の恋も、それどころか今日というこの一日さえも…。

タイトルの「ミュリエル」が、本当にいたのだどうかは実際には描かれていない。だがしかし、ベルナールにとってのミュリエルは生涯消えない傷となって残りつづけている。その古傷をひっかくことでしか、ベルナールは生きられないのだ。エレーヌもアルフォンスにも、同様のことが言える。

リタ・ストライシュの歌うオペラ的な歌唱の効果が印象的。滑稽で悲劇的な、呪文のようなうた。散文的なカットの連続の中に、故意に不調和に投げ入れられ、乾いた映像世界を内側から支えている。レネ初のカラー作品。原題は「ミュリエル、あるいは回帰のとき」の意味。

(1955年 フランス 32分)
■監督 アラン・レネ
■原作・脚本 ジャン・ケイヨール

■音楽 ハンス・アイスラー
■ナレーション ミシェル・ブーケ


鳥が飛び交い、地面の枯草が微風にそよぎ、夕日の光がふりそそいでいる。まるでミレーやコローの絵画のような、のどかな田園の風景。聞こえてくるのは、かすかな風とそよぐ草の、それもよほど耳をそばだてないと、とらえられないような音だけである。平和で、時が停止したような、静かな光景。その中に、赤さびた煉瓦づくりの廃墟がある。1933年から12年間、ここで強制的な死が続いていたとは、想像すらできない。

その場所で、人間は、物質として分別されていた。眼鏡、毛髪、骨の山。積み重なる屍も、脂肪は石鹸へ、女性の髪の毛は毛布へ、皮膚は紙へ、灰や骨粉は肥料へと変換される。それでも死体が増え続けるスピードは、物質への還元にも間に合わなくなり、やがてブルドーザーが腐った材木を扱うような調子で、痩せ細った死体を10メートルもの深さに掘った穴の中へ落とし込んでゆく。

とても現実とは思えない、正視に堪えない画面の連続。しかしこれが現実だった。本作は、アウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所を描いた衝撃的な記録映画である。当時のニュース・フィルムや写真に、撮影当時(終戦10年後である1955年)の収容所跡地のカラー映像がモンタージュされた、戦慄の32分。流れるスコアの穏やかさがより恐怖を引き立てる。

レネは語る。「死者の記念碑を建てることではなく、現在と未来を考えることを目的とした」

人類の曖昧な記憶を生々しく問い質し、警告する。戦争の恐ろしさと狂気を静かに訴えかける傑作ドキュメンタリーである。

(1959年 フランス/日本 91分)
■監督 アラン・レネ
■原作・脚本 マルグリット・デュラス

■出演 エマニュエル・リヴァ/岡田英次/ベルナール・フレッソン/アナトール・ドーマン


「君は広島で何も見なかった…」

暗がりの中に肉体が浮かび上がる。男女が抱き合っている。女がつぶやく。
「私、見たわ。何もかも。ヒロシマで」
男が答える。
「君は何も見ていない」

病院、被爆者の顔、惨状、焼けた石、平和広場、記念ドーム、棄てられる放射能汚染魚などの光景が、会話とともに画面に現れる。

男は日本人、女はフランス人。二人は昨夜偶然知り合ったばかりだ。反戦映画の撮影で広島に来た女優と、建築技師の男のゆきずりの情事。出会いと別れが、ふたりの愛の進行につれ、彼女の禁じられた愛の過去を呼び覚ます。

『夜と霧』で、ドキュメントに残る過去のアウシュヴィッツと、現在の忘却されたアウシュヴィッツを対比させて戦争を糾弾したレネだが、それを劇映画に発展させたのが本作『二十四時間の情事』だと言えよう。アラン・レネ長編第一作、ヌーヴェルヴァーグの最も重要な作品!

3作品に共通する、意図的な時間軸の交錯。
「いま」という時間と、内に秘めた「過去」の記憶が緩急のリズムで繰り返される。

『夜と霧』では、かつての惨忍な光景と、現在の牧歌的な風景の鮮やかな対比。
『二十四時間の情事』では、戦争の爪痕が色濃く残る広島の風景から、呼び起こされる、過去に封印した記憶。
『ミュリエル』では、かつての記憶と傷痕と、その過去に囚われたまま続く現在の日常という時間。

時間が行き来することで、過去は現在に引き寄せられ、現在を侵食する。
忘れ去ったはずの記憶が鮮やかに蘇り、奥深くに眠っていた無意識が呼び覚まされる。

日常という時間の流れは、ただ圧倒的で、「いま」というものがここにあるだけだ。
では、この過去たちをどう受け止めるべきだろう。
観終わった時に、その答えが、あなたの中に根づくことを願って。

(mana)


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