2007年8月11日〜8月18日まで上映■山中貞雄

丹下左膳餘話 百萬兩の壺
(1935年 日本 87分)
■監督 山中貞雄
■原作 林不忘
■脚本 三村伸太郎
■出演 大河内傳次郎/喜代三/沢村国太郎/山本礼三郎/鬼頭善一郎

人情紙風船
(1937年 日本 86分)
■監督 山中貞雄
■原作 河竹黙阿弥
■脚色 三村伸太郎
■出演 中村翫右衛門/河原崎長十郎/助高屋助蔵/市川笑太郎/中村鶴蔵

1937年、山中貞雄は『人情紙風船』を発表させたその日、招集令状を受け、戦火の中国へと旅立った。

翌年、若き映画監督は二度と映画を作ることなく、急性腸炎のため帰らぬ人となった。

28歳10ヶ月の生涯だった。

しかし、この若き映画監督はデビューした22歳から従軍までの5年間に26本もの日本が誇るべき作品を世に残し、日本映画の歴史の中でも小津安二郎、成瀬巳喜男らと肩を並べ、評価されている。

ただ、先ほど私は「作品を世に残し」と書いたが少し語弊がある。実は山中貞雄が監督したフィルムは今現在3本しか存在していないのだ。

それが山中貞雄が世に隠れた映画監督となってしまった理由の一つでもあるように思える。非常に歯がゆい次第である。どんなに天才監督でもその人間性を2〜3本の作品の中から見つけ出すことは難しい。黒澤明や小津安二郎らが世界的に賞賛されているのもあの数多くの作品が今現在も存在し、次の世代へと受け継がれているからである。黒澤にしても小津にしても前半期の作品だけでは今のこの名誉はなかったかもしれない。

もちろん、映画監督は名誉や他人と比べるために映画を作っているわけではないが、山中貞雄も世界の黒澤明、小津安二郎、溝口健二らの仲間入りをできる有望な映画監督だったと考えると惜しくてしょうがない。そして、今は存在しない残りの23本にお目にかかりたくてしょうがない。

ただ幸いにもこの天才監督の現存する稀少な3本のフィルムのうち、『人情紙風船』と『丹下左膳余話 百万両の壺』の2本を今回、我々早稲田松竹が上映することになり、感無量である。また皆様にもこの機会に是非、花火のように美しく花開き、戦争により儚く散っていった山中貞雄を観ていただきたいと強く思う次第である。

戦時中、山中貞雄は中国の南京で小津安二郎と会っている。その時二人が何を話したか、それは二人のみが知るだが…たぶん映画の話だろう。 日本に帰っていったいどんな映画を作ろうか、これからの日本映画界はどうなるのか、色々と話してお互いに刺激し合い、希望を持ち続けようとしたのだろう。

その後、山中は帰らぬ人となり、小津は日本に帰った。そして名作を含む数多くの映画を世に残した。

もし、山中貞雄も生きて帰っていれば…。

しかし、もしの話をしたら限がないだろう。私がもっと身長高かったらとか、顔がポール・ニューマンだったらとか…いくらでも出てくる。

ただその「もしも」が可能なら、私の上位には山中貞雄が生きて日本に帰り、映画を撮り続けていれば、が当然のごとくランクインされるのである。

ちなみに「もしも」の私のベスト1は

もしも、私が長澤まさみと同級生だったら…である。

ローラ)


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