★スピード配達事件 物販篇
「俺行くよ!」…監督の一言で決まったトークショー。わくわくしながら準備をすすめていたある日のこと、劇場の前に一台の車が。現れたのは…わ、わ、若松監督だ!突然の監督登場にスタッフは超びっくり。「若松プロです!納品に来ましたー!」 同行された助監督が、次々と段ボールを運びこんでいきます。物販を発注してからわずか数時間後のことでした。早撮りで有名な若松監督、配達も超特急!
★スピード配達事件 フィルム篇
上映日が近づき「そろそろフィルムを…」とお願いしたところ、「今から監督が行きますので」とのこと。こちらは前回の記録を大幅に更新! 30分足らずで到着いたしました。このフットワークの軽さが若松組を支えているのかも?
★突然サイン会勃発事件
トークショー当日、予定より早く会場入りした監督は、ロビーに入るなりパンフレットの販売場所を変更。ロビー中央に机を設置、パンフレットが山積みにされ、次々にサインしていきます。そこで監督がぼそっと一言。「俺のサイン要らない人もいるんじゃないかなあ」…(!) いつの間にか大勢のお客様が集まり、ロビーはさながらサイン会のような光景に! 期待を上回る出血大サービスでした。
★トークショーは突然に事件
サインを書かれていた監督、ふらっとトイレに…と思ったら、お立ち見のお客様を掻き分けて突然のご入場! 「どうも、若松です」…あれ、もう始まった? とスタッフが焦ってました(笑) これでビシッと決めてしまうのが、監督のカッコイイところ! いかがです? 監督のお話の数々、濃厚でしょう? 胸にぐっとくる男前パワー、本当に素敵でした!
僕が1982年にレバノンに行った時、シャティーラの難民キャンプで女性や子供の死体の山がありました(※サブラ・シャティーラ大虐殺:難民キャンプの難民たちがファランヘ党により3日間にわたって虐殺された事件。死者数は3.000人を超えるとも言われる)。なんでこんなに女性や子供が多いかというと、女は子供を産むから。そして子供が大きくなれば必ず爆弾背負って兵士になるからなんです。それであの大虐殺は起こった。
女性が犯され、殺される。子供も殺される。これが戦争なんです。正義も国家のためもないですよ。日本もそろそろ戦争だなんて若い人言うけど、それは(若い人が知っているのは)ゲームの世界。ゲームじゃ死なない、だからみんな戦争はそんなものだと思うかもしれないけど、本当は残酷なものです。
何故『キャタピラー』を沖縄から上映したかというと、1945年6月18日に、軍の解散命令が出たんですよ。もし米軍に捕まろうものなら、戦車に引き殺されて死ぬ、レイプされて死ぬ。だから自害しなければならなかった。そして19日、14人のひめゆりの乙女が自害したんです。子供たちやお母さんたちもそれまでにいっぱい死んでるし、いまだにその鍾乳洞も残ってます。そういう風にして日本は、あの戦争をマスコミと国家によって、勝ってる勝ってると言いながら、酷い目にあっていった。
僕は74歳ですけれども、ちょうど小学校3年生でした。僕は仙台からだいぶ離れたところにいましたが、仙台の空襲のときなんか、焼夷弾が線香花火みたいで綺麗だったんですよ。空が真赤になってね。旗ふって「いってらっしゃーい」ってやったもんです。「お国のためにいってらっしゃーい」って。あれ、たった一銭五厘ですからね。一銭五厘のハガキでみんな連れていかれて、みんな死んだんです。自分たちの子供や亭主がいっぱい死んだ。それが戦争なんです。
その戦争を起こした人たちの子供が、連合赤軍なんです。『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を作っている時、みんながどんどん戦争を忘れていると思った。この子供たちを生んだ連中がやったことを伝えていかなきゃならないと、そう思って作ったのが『キャタピラー』なんです。僕は再現映画を撮ったつもりは両方ともない。人間って一体なんなんだろう? そう考えながら撮りました。
今、例えば戦艦大和とか、戦争が格好いいかのように描いた映画がいっぱいあるけれど、僕はそうじゃない。戦争は格好悪いというのを作ったんです。
この映画では天皇の写真が鴨居の下にありますが、昔は天皇の写真は必ず鴨居の上にあったんですよ。何故この映画では下にあるかというと、画面に入るように(笑)
僕は寺島さん(シゲ子役:寺島しのぶさん)に何も言ってないですよ。でも、もし天皇の写真を叩き落としていたら、大変だったんじゃないですかね。右翼の人たちが黙っていなかったと思います。寺島さんはそこまで考えて、天皇の写真だけは外さなかった。あれは立派だなあ、すごい俳優さんだなあと撮影しながら思っていました。なんで天皇の写真までやらなかったんだと言われることはありますけれども、ちょっと…やっぱり僕もそこまでの度胸はなかったですね(笑) お金かかってるしね! これで上映できなくなったら僕は破産して、浮浪者になるしかなかったですから。
組織を作るとああなっちゃうんですよ。必ずそこに権力者が出てくる。権力を守るために、邪魔なやつはどんどん消していく。世界でも、日本でも、相撲部屋でもそうですよ(笑) 会社でもね。邪魔なやつは北海道の寒いとこまで左遷したりするでしょう。権力っていうのはああなっちゃうんですよ。
どこの国でもそうだけど、必ず粛清がある。自分の邪魔するやつは殺してしまおうってね。それが大きくなってくると、かつてのスターリンとか毛沢東みたいになっちゃう。 僕は権力者なんていないほうがいいと思う。いいじゃないですか、ご飯食べられて、楽しいしね。それで生きていけるから。お金持ってあの世に行けるわけでもないのに、どうして人間の業っていうのはあんな風になっていくのか、僕にはわからないね。
連合赤軍事件からもう40年たちますけど、あれから何も起きないでしょう? あれで学生運動や労働運動、全ての運動はだめになった。あの後出てきたのはオウムでしょう。そしたら、オウムはもっと殺してる。果たして、何か起きましたか?
僕はこれから三島由紀夫の映画を撮ります。4月か5月から撮りますけど、彼が市ヶ谷で死んでから40年。なんか起きたかなあ? 体はって、命はって、死んで、なんか起きたかな? その前には山口二矢が日比谷公会堂で、浅沼稲次郎を殺したでしょう。あれで世の中変わった?変わらないでしょう。虚しいでしょう。なんにも起きないでしょう。僕は暴力を否定しません。相手が暴力をもってきたら自分たちもそれに向かって暴力で闘わなきゃいけないし。ただ、侵略する暴力と守る暴力があると思う。それを一人一人考えると、そういうのなくなるんじゃないかと思ってます。
躾はあると思いますよ。やっぱり一番は親の教育だと思います。僕の家は百姓でしたけど、オヤジはただの酒のみで、おふくろは本当に良い人で。いつかオヤジを殺してやろうと思ってたけど(笑) おふくろはとっても優しい人だった。そういう意味では…特に母親のような気がするね。やっぱり家庭っていうのは一番必要じゃないのかなあ。もちろん国も必要ですけど…。それぞれの家庭で、箸の持ち方から礼儀から、昔のいいことをきちんとそのまま教えて欲しいですよね。
それね、教えておこうか。あのね、軍隊に連れていかれないためには、馬鹿なフリをすること、そして醤油を飲んで肺病になること。クマ(篠原勝之さん)がやったあの役は、わざと馬鹿なフリをしている。食えないものを食ったりね。そして戦争が終わると、「終わったー!やったー!」って喜んでる。あれが本当の反戦の姿なんです。ああいう人間が多ければ多いほどいい。うちの村にもあんな人いましたよ。戦争終わったら普通の格好して、平気で野良仕事してたよ(笑) 死ぬよりバカなフリしてるほうがいいってね。ああいう抵抗の仕方があるんだ。抵抗の仕方はいっぱいあるんだから、それぞれ考えればいいんだ。あれは本当に、最高の役でね。一番人に好かれるんじゃないかな。あんな人もたくさんいたっていうことです。
終戦後、傷痍軍人がたくさんいました。両手両足がなかったら、昔だったらすぐ殺されましたよ。映画の中の久蔵は神様として国が利用しているだけです。だから物事を見る時に、ああ、あれは何だったんだろうって、それを考えるといいんじゃないかなあ。今ものを考えることって、あんまり学校で教えないんだろう!(笑) 先生はただ黒板に数字書いたりしてさ。何かを考えたり、これはどう消化していこうかっていう思考を停止させてる。
僕が撮った映画に『17歳の風景』というのがあります。お母さんを殺した少年の話です。僕は少年犯罪を1965年から全部調べたけどね、殆どいい子ですよ。頭はいいし、ものすごく心優しい。そんな子がなんで犯罪を起こすかっていうと、全部家庭が悪いんです。全部親が悪い。一人の人間として扱わないで、レールにのせちゃう。「いい子になんなさい、勉強しなさい、お父さんみたいにはなっちゃいけない、東大に行きなさい」。それでどんどんストレスがたまって、14〜17歳のあいだに、突然スイッチが入るんですよ。すると一番身近にいる人のところに暴力が向いちゃう。母親だったり、弱い人のところにね。みんな普段はいい子なんですよ。
さっき教育っていうのはそれで言ったの。もっと自分の生き方、人間の生き方を考えて欲しい。いいじゃない、別に官僚にならなくたって、食えればさ。食って人生真っ当に生きればいいじゃないですか。僕は家出少年だったんですよ。学校も行ってない。コッペパンにジャムとかマーガリンをちょこっとつけたやつを一日に1個食うだけで大変だった。そんな時代に、僕はおふくろの金をかっぱらって田舎から東京に出てきた。学校に行かなくても今まともに生活してるから。あんまり心配しないで堂々と生きていたらいいと思います。
三島さんについては膨大な量の資料がありますよ。みんな勝手に書いてます(笑) これを可能な限り調べて、何十人という人間に会いました。盾の会の人間にも会いました。三島さんがあそこで腹を切って死んで、なんか起きたの? 何も起きないでしょう。みんな勝手にエロティシズムとか、どうのこうのとか、三島は…とか、そうじゃないと思うよ。
みんな色々言いますよ。二・二六事件で見たものがあの人の原点だとか、刀ってものがどうとか、人間の肉体は40代後半からどんどん衰えてくる、だからあの時死んだんだとか。なんでかは、僕も分かりません。ただ僕が思うに、三島さんは自衛隊を立ち上がらせてクーデターを起こして、アメリカが作った憲法を改正しようと思ったんでしょう。それができなくて、結局は自分はもう死以外にはないと。死をもって訴えても何も起こらないと、あれだけの人は知っててやったと思いますよ。
死とエロティシズムとか関係ないんじゃない?(笑) それはちっちゃな事。勝手に一部の出版社が本を売るために言ってるだけで。あなた日本人じゃないから、刀と弓とか切腹とか首斬り、介錯の意味とかわからないでしょう。ああ、もしかしたら介錯するのがエロティシズムかもね。腹を十文字に切って「落ち着け、まだだ、まだだ、いいぞ」って言って、スパーンって。それを見る人が見たらね。
あの人の映画にも有効期限があるけども、あんな臓物がゴロゴロ出てくるようなものがエロティシズムなんて僕は思わない。その人その人の感性が、本当にもうどうにもならなくなって自分で死にますからね。どうせ死ぬんだったら、やっぱりみっともなく死にたいって想いが日本人のどこかにあるんじゃない? 野村秋介が朝日新聞との話し合いのあと料亭で拳銃で死んだのと同じように。
(三島由紀夫さんの死は)大変だったらしいですよ。一回では首が斬れなくて三回斬る。やっぱり一回では斬れないんですよ。自分の首を斬らせるのは、一番尊敬する人にやってもらう。その辺の犯罪者じゃないからね。介錯は、必ず一番信頼してる人に頼むんだ。かっこよくね…これも一つのエロティシズムなんじゃない?
最低だよな(笑)
そういう先生にこそ、食ってかかったほうがいいと思いますよ(笑) 街中にでて、あれはどうなったんだ?って。まだ運動をやってる人もいますけど、あとはみんな学校に戻って、いい給料もらって食ってる。もう情けないですよ。それに対して、今の学生がいっぱいヤジを飛ばしてくれればいいんだよね。もう学校にいられないようにしてやればいいんだよ(笑) 俺はそう思うよ。ほんとずるいよね。散々人を持ちあげて、みんなを先導してさ。怪我したり死んだやつもいっぱいいるのに、平気で学校へ寝返って教授なんかになって、それより中退したほうがいいと思います(笑)
一番腹がたつ。憎かったんだよ。何故かって、あの遠山美枝子っていう死んでいった女の子がいるでしょう? あの子は、僕がアラブで撮ってきた『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というドキュメンタリー映画の、上映運動を一生懸命してくれた子なんですよ。炊き出しまでやってくれた。それが急にいなくなって、「あの子来ないな、どうした?」って聞いたら、「山へ行った」って。ずっと僕のところでやってれば死なないですんだだろうし…。彼女は重信房子ともすごくいい友達でね。あの子(遠山美枝子さん)が死んだ時は一番悲しかったし、腹がたった。だからあの映画で一番しつこく、一番残酷に撮った。まあ、僕の私怨が入っていると思います。そういうことです。
永田洋子だって悪い子じゃないですよ。みんないい子だけど、結局組織がああいう人間にしちゃう。彼女は、俳優さん(並木愛枝さん)がものすごく憎たらしく演じてるけど、本当は綺麗な人ですよ。映画だと酷く見えるけど(笑) みなさんにうっとりと見てもらいたいくらい最高の人なんです。 そういう意味で、遠山が美しく死んでいったっていうのかな、あの映画ではそう描きました。それが僕の想いです。
永田洋子さんに関する質問を最後に、大きな拍手で幕を閉じたトークショー。その日の夜に、元連合赤軍最高指導者、永田洋子死刑囚が死亡したというニュースが飛び込んできました。長年患った脳腫瘍や多臓器不全による病死ということです。65歳でした。この偶然に、スタッフや関係者、もちろんお客さまからもたくさんの驚きの声が聞かれました。このニュースをきっかけに当時を振り返ったり、新たに関心を持ったりして劇場に足を運ばれた方も多かったようです。上映最終日の金曜日(祝)は、大勢のお客様で場内は満席。大雪の悪天候にも関わらず…。40年前の冬の雪山、凍てつく寒さの中死んでいった若者たち、山を越えた兵士たち、獄中で死を迎えた永田洋子さんの胸中に想いを馳せてしまいました。
そして監督はと言えば、上映期間中ほぼ毎日お電話をくださりました。「どうだー?儲かってるかー!?」…こんな監督、世界中どこを探してもいないと思います(笑) 最後まで驚きと喜びを与え続けてくれた監督に惚れ惚れとしてしまいました。こうして早稲田松竹では初めての若松孝二監督特集は、大成功のうちに幕を下ろしたのでした。