今からわずか30年ほど前の韓国では、時の軍事独裁政権が国民を厳しく締めつけていました。当時民主化運動のリーダーと称えられていた、のちに大統領となる金大中氏が不当に逮捕されると、彼の出身地に近い韓国第4の都市・光州では至るところで市民のデモが起こり、自由と民主主義が叫ばれていました。1980年5月18日、時の政権は2万人の部隊を光州へ送り込み、武器を使った凄惨なデモ掃討作戦を開始します。軍の発表では死者168人、負傷者は4782人とされていますが、実際にはこれよりもずっと多いと言われています(*1)。未だに全容が解明されていない歴史的悲劇、「光州事件」の始まりでした。
自由を求める熱風が吹き荒れた、民主化夜明け前。
今週の早稲田松竹は、光州民主化運動にまつわる韓国映画の二本立て上映です。
光州をふくむ全羅南道と呼ばれる韓国の南側は、古くより他の地域から差別を受けていました。政府はこうした感情につけ込み、報道管制を敷いたうえで光州市民の闘いを「アカ(当時国を挙げて敵対視していた、共産主義者の蔑称)の暴動」だと全国に伝えていたのです。そのため、地元のタクシーが民衆と連帯した「光州のタクシーデモ」は、実は韓国でもあまり知られていませんでした。鎮圧軍の銃弾をかいくぐって救急車代わりにけが人を運び、大通りをふさいで民衆の盾となった闘士たちに光を当てたのが、『タクシー運転手~約束は海を越えて~』(以下『タクシー運転手』)です。
この映画は、革命に身を投じるのは思想に貫かれた人間だけではないのだと証明してくれます。本作の主人公・ソウルのタクシー運転手マンソプが、ドイツ人ジャーナリストのピーターを270キロ先の光州まで乗せることになったのも、高額な乗車賃を目当てにしただけでした。デモの学生たちを軽くあしらう一方で、留守番している愛娘に気をもむ平凡な父親です。そんな俗物漢を演じるのは、アジアが誇る名優ソン・ガンホ。揺れる感情を抱えながらも信念の人として力強く物語を動かしていく演技は彼の真骨頂です。『タクシー運転手』は国家権力の横暴を今に告発する社会派映画ですが、血よりも濃い漢たちの絆に涙を搾り取られるクライマックスが用意されています。職業倫理とは何か、そして人は何によって立つべきかという重い問いかけもはらんだ本作は、韓国映画の新たなマスターピースとして刻まれるべき傑作です。
『ペパーミント・キャンディー』が韓国映画史に残る偉大な一本に必ず挙げられるのは、国や人々の運命を大きく変えた光州事件を主軸にして現代韓国の暗闇をふり返りながら、その奥に隠れたより深い人生の悲しみに触れているからに他なりません。本作に使われている時間の逆転は、映画的手法として極めて単純ですが、その印象の鮮烈さは唯一無二です。主人公キム・ヨンホは純粋すぎたからこそ、一度手を汚した自分はもうやり直せないのだと絶望し、卑劣な生き方を選んでしまいます。はじめて想いをよせ合った女性とやり直せる瞬間も、誠実なまま踏みとどまる機会もあったのに、すべて自ら手放してしまうのです。激動の時代に翻弄され、心をすり減らした「キム・ヨンホ」という人間はいくらでも存在し、ひとつボタンをかけ違えていたら自分も彼のようになっていたかもしれないという現実を、『ペパーミント・キャンディー』は我々に容赦なく突きつけます。
序盤のキム・ヨンホは自分本位で冷酷で、実に唾棄すべき人間です。そんな一人の男の純粋と喪失をみつめる旅をともにする観客は、ヨンホが現実に20年の時間をさかのぼっているようにしか見えないことに驚くでしょう。まだ名もない新人俳優に過ぎなかった主演のソル・ギョングが、ほどなく韓国屈指のカメレオン俳優として賞賛を浴びるようになるのもうなずけます。
光州を孤立させて多くの市民を犠牲にしたことは、韓国国民の心に棘のように刺さりました。1987年、光州生まれの一人の大学生が、ソウルで鎮圧隊の催涙弾を頭に受けて亡くなります。故郷の深い傷を目の当たりにし、強い意志で上京してきた若者を踏みにじった国家の暴力に、市民が憤然と立ちあがったのは言うまでもありません。その年の6月29日を以って、ついに国民は民主化を勝ち取ります。光州事件から7年、怒りと悲しみが満ちていた韓国に、ようやく本当の春が訪れたのでした。
(ミ・ナミ)
*1文京洙「新・韓国現代史」(2015年12月26日 岩波書店)
ペパーミント・キャンディー
박하사탕/Peppermint Candy
(1999年 日本/韓国 129分 ビスタ/SR)
2018年8月18日から8月24日まで上映
■監督・原作・脚本 イ・チャンドン
■製作 ミョン・ケナム/上田信
■撮影 キム・ヒョング
■編集 キム・ヒョン
■音楽 イ・ジェジン
■出演 ソル・ギョング/ムン・ソリ/キム・ヨジン
■2000年カンヌ国際映画祭監督週間出品/大鐘賞最優秀作品賞ほか主要5部門受賞
ある男の人生を20年にわたって遡る、切ない物語。何もかも失ったキム・ヨンホが全てを捨てる決意をした時、彼の脳裏に様々な思い出が甦る。5年前、自ら放棄してしまった家庭。15年前、互いに想いを寄せながらも、別れを決意した初恋の人スニムへの愛。純粋な青年だった彼の人生を狂わせたものは何だったのか?
一人の男の人生を通して、韓国の政治状況も冷静に見据えながら、選ばなかったことで失ってしまった大切な時間を一つひとつ辿っていく。輝く未来を信じ、初めて恋しい人と心を通わせた20才のあの日には、もう戻れない…。
小説家を経て脚本家として映画界に入り、96年『グリーン・フィッシュ』で監督デビューしたイ・チャンドン。第二作目の『ペパーミント・キャンディー』では、人生への深い洞察と、真実味のあるストーリー、郷愁を誘う映像美で、アジアを代表する新しい映画作家として世界に強い衝撃を与えた。主演は、いまや韓国を代表する名優であるソル・ギョング。20年におよぶ男の人生を全身全霊で挑み、圧倒的な演技力を見せつけた。
韓国のアカデミー賞といわれる2000年の大鐘賞で主要5部門受賞、各国の映画祭でも絶賛を浴びた『ペパーミント・キャンディー』。なお、本作は日本とのNHKと韓国の共同制作で、韓国の日本文化開放後、両国が最初に取り組んだ記念すべき作品でもある。
タクシー運転手 約束は海を越えて
택시운전사/A Taxi Driver
(2017年 韓国 137分 シネスコ)
2018年8月18日から8月24日まで上映
■監督 チャン・フン
■脚本 オム・ユナ
■撮影 コ・ナクソン
■編集 キム・サンボム/キム・ジェボム
■音楽 チョ・ヨンウク
■出演 ソン・ガンホ/トーマス・クレッチマン/ユ・ヘジン/リュ・ジュンヨル
■第90回アカデミー賞韓国代表出品/大鐘賞最優秀作品賞、企画賞ほか多数受賞・ノミネート
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ソウルのタクシー運転手マンソプは「通行禁止時間までに光州に行ったら大金を支払う」という言葉につられ、ドイツ人記者ピーターを乗せて英語も分からぬまま一路、光州を目指す。何としてもタクシー代を受け取りたいマンソプは機転を利かせて検問を切り抜け、時間ぎりぎりで光州に入る。「危険だからソウルに戻ろう」というマンソプの言葉に耳を貸さず、ピーターは大学生のジェシクとファン運転手の助けを借り、撮影を始める。しかし状況は徐々に悪化。マンソプは1人で留守番させている11歳の娘が気になり、ますます焦るのだが…。
戒厳令下の物々しい言論統制をくぐり抜け唯一、光州を取材し、全世界に5.18の実情を伝えたユルゲン・ヒンツペーター。その彼をタクシーに乗せ、光州の中心部に入った平凡な市民であり、後日、ヒンツペーターでさえその行方を知ることのできなかったキム・サボク氏の心境を追うように作られた本作は、実在した2人が肌で感じたありのままを描くことで、1980年5月の光州事件を紐解いていく。
タクシー運転手のマンソプに韓国映画界の名優ソン・ガンホ、ドイツ人記者にドイツのベテラン俳優トーマス・クレッチマン。 他、唯一無二の存在感を放つユ・ヘジン、若手実力派リュ・ジュンヨルと豪華キャストが集結。ここに『義兄弟』『高地戦』のチャン・フン監督の演出が加わり、平凡なタクシー運転手と外国人記者、そして光州で出会う人々が危険な状況に負けず、最後まで自分の信念を貫き通した“あの日”をドラマチックな感動で包み込む感動作が誕生した。