★物語の結末にふれている箇所がございます。予めご了承ください。
深田:どうも皆様初めまして。ただ今ご覧になった方が多いと思いますが、『淵に立つ』の脚本・監督を務めました深田晃司です。 この映画の企画は、2006年にシノプシスというA4用紙2〜3枚程度の短いあらすじを書いたところからスタートしたのですが、当時はキャリアも浅かったので、なかなか長編映画を一本作るのが難しく、しばらく作れないでいました。
その間に、もうちょっとコンパクトなサイズの長編映画『歓待』(2010)という作品を作ったのですが、これは実は『淵に立つ』のシノプシスがベースになっていて、『淵に立つ』の前半の“子供のいる夫婦の中に流れ者の男がやってきてかき乱して去っていく”という部分だけを抜き出して長編映画にしたものでした。『歓待』では、『淵に立つ』でいう八坂(浅野忠信)に当たる、外からやってくる男の役を演じていたのが古舘寛治さんだったんです。その時に書いたシノプシスは、パンフレットにも掲載されています。実は結末が違ったりしていますので是非ご興味がある方は手に取ってご覧下さい。
ところで、今こうやって早稲田松竹で話ができるのはとても嬉しいことです。私は10代の頃から映画ばかり観て育ってきたんですが、大学時代は早稲田松竹に通っていたので、ここで自分の映画が上映できて皆さんとこうして喋っているのは、不思議だなぁと思います。早稲田松竹で『ラストエンペラー』がかかっていた時、もう一本が『ラスト サムライ』で。その時は【最後の男たち特集】っていう特殊な組み合わせだったんですけど、「全然関係ないんじゃないのかこの二本は」(笑)と、なんて力業の特集を組むステキな映画館なんだろうって思いました。
深田:実は今日たまたまスペシャルゲストというか、サプライズで、この映画の撮影監督の根岸憲一さんと、音楽の小野川浩幸さんがいらっしゃっているので、壇上に上がってもらっちゃいましょう。どうぞ、皆さん拍手でお迎えください。
(根岸憲一さん、小野川浩幸さんご登壇)
深田:なんだか根岸さん、この間早稲田松竹で映画の撮影をしていたそうですが。
根岸:はい、そうです。こっから、こう撮りました。(ステージから客席を撮るポーズ)
深田:新しい映画の撮影ですか?
根岸:そうです。みんながびっくりするような撮り方をしてます。すごい話を、ちょっととんだ監督とやっています。(タイトルなどはまだ言えないそうが、来年あたり公開予定だそうです)
深田:『淵に立つ』を撮影したのが2015年の10〜12月なので、1年半くらい過ぎてしまっていますけど。根岸さんとは結構長くお仕事していて、初めて会ったのは先ほど話題にあげた『歓待』っていう作品で、『ほとりの朔子』(2013)、『いなべ』(2013)、今回の『淵に立つ』、去年撮った『鳥(仮)』っていう短編映画も撮ってもらいました。現場で思い出はありますか?
根岸:思い出はですね…現場でギャグを言ってウケたときとウケないときの差が結構あって、なるべくウケるように前の日に一生懸命ギャグ考えていましたね(笑)。
深田:そんなことばっかり考えて現場に臨んでいたんですね(笑)。
根岸:そうなんです。意外とウケるなあと思うやつがウケないんですよ。現場で思いついたやつが結構ウケたりするんで、やっぱり考えないほうがいいんだなって。
深田:なるほど、映画って難しいですね。
根岸:映画って難しいですね。
客席:(笑)
深田:撮影監督っていうと、比較的カメラの横ですごい難しい顔をして座っている恐い人っていうイメージが強いんですけど、根岸さんは全く逆のタイプで。本当に現場を明るいユーモアのあるギャグで和やかにしてくれる。連日ギャグが続くからだんだん撮影助手の人たちが誰も反応しなくなっているくらいでした(笑)。成長した蛍の役をやられた真広佳奈さんは、根岸さんのギャグが完全にツボに入っていて全部笑ってましたよね(笑)。
根岸:近づくだけで笑ってましたね。真広さんは初めての出演で、すごい固くなってたんですよ。このままだときっと良くないなとほぐしてあげようと思って。そしたら行き過ぎてしまいまして (笑)。
深田:いやー、でも本当に現場というのは緊張しやすい所なので、すごい助けられました。
深田:小野川さんとは『さようなら』(2015)と、『いなべ』という作品でご一緒して、今回3度目のお仕事になりました。自分は比較的音楽に対して変なこだわりを持っているというか、全く音楽を使わないできた人間なんですね。前の『歓待』でも『ほとりの朔子』でも。小野川さんと出会ったから徐々に音楽の分量が増えつつあるんですけど。今回やってみていかがでしたか?
小野川:いつものことなんですけど…(深田監督は)毎回脚本を渡すと同時に「すみません、今回も音楽はいらないかもしれません」という注文なので、基本的に最後の最後まで気は抜けないんです。油断するとすぐファイナルミックスとかでどんどん音を削られていくので(笑)。
(普通は)音楽は作って提供した段階で終わりなんですけど、僕はいつもファイナルミックスまで参加して、プロデューサーと監督とディスカッションして「この音楽はここに必要なんだ」とちゃんと説明しながら、音楽が最後まで残るようにやっています(笑)。
深田:そうですね。非常に総論的な話になってしまうと、私はいつも映画を作る時に、理想では100人が観たら100通りに観方が分かれる映画にしたい、解釈の分かれる映画にしたいと、結構本気で思っていて。そういう風に作ろうとすると、音楽はものすごい力を持っているから、やっぱり音楽の力に対する警戒心みたいなものがあるんですよね。300人いる劇場を一気に一つの感情に巻き込む、掴んでしまう力があるからこそ、音楽で何か感情やテーマ、雰囲気を説明するっていうのは、できるだけ避けたいって思っているんです。 基本的に脚本を書く時にも、演出をする時にも、「ここは音楽を入れることを前提に撮ろう」と思っているシーンはほとんどないんですよね。小野川さんと仕事をしていて面白いと思うのは、出来上がった脚本と編集された素材を観てもらって、逆に音楽の入れどころを発見してもらうような作業になるところです。
驚いたのは、前半の喫茶店で八坂が章江(筒井真理子)に対して告白をするシーンがあるんですけど、あそこで音楽を入れようというイメージは、僕は全く無かったんですね。そこに音楽を付けてくれたのは小野川さんの判断で、とても良かったなと思うんですけど。そういう入れどころはどんな感じで見つけていくんですか?
小野川:毎回違うんですけど、やはり役者が変われば変わるので。多分、八坂が浅野(忠信)君じゃなかったら、あそこには入れてないかもしれないし。監督がいつも言うように、役者同士のコミュニケーションとか関係性というもので、色んなものが変わっていく。音楽もその一つで、浅野君だったら違うし、筒井さんだったら違うし、と。監督が一番嫌なのは、一つの方向にみんなの気持ちをまとめちゃう音楽。でも僕はそれを「違う方法もあるよ」と、作品としての深みは出すけど、逆に皆をカオスにしたり、想像しやすいようにヒントだけを散りばめたり、っていう音楽を今回は提案して。ただ、筒井さん(章江)が最後に車に乗って探しに行く前に走るシーンは、本当に最後の最後まで深田さんは「音楽はいらないんじゃないか」ってお話してましたよね。
深田:そうですね、あそこは走ってる音と吐息だけでいいんじゃないかと考えていて。でも、小野川さんはずっとあのアコーディオンを入れたいって言っていて。正直、実際の音を聞かせてもらうまで、内心「いらないけど、最初からいらないって言うのはちょっと悪いから、とりあえず聞かせてもらって、後で言えばいいか」と(笑)。でも、入れてもらったら良かったんだよね、これが(笑)。
小野川:海外とかで特にあのシーンはすごい評判いいですよ。
深田:そうですよね。
小野川:だから本当に良かった。その時にやっと監督に「どうだ!」という顔ができるんで。
深田:はい(笑)。
深田:『淵に立つ』は日本とフランスの合作映画になっていまして、撮影は日本で行なっているんですけど、いわゆるポストプロダクションという、撮影後の色や音を調整したりとか、音楽を付けたりという作業はフランスでやっていて、ここにいるメンバーは3週間フランスに行ってきたんです。根岸さんは、カラーグレーディングっていう色の調整をフランス人のカラーリストと一緒にやってもらったんですけど、いかがでしたか?
根岸:フランスのカラーリストが素晴らしい人で。作品を気に入って、よく分かってくれていて。色と光って、人によってみんな(見え方が)違うんですよ。僕は、前半と後半の色が違ったり、光が違ったり、誰かが出てくると色が変わったりという、色んな細かい仕掛けを皆に分からないようにやったんですよ。でもそのカラーリストは、それをちゃんと分かってくれて。「紫」とか「黄色」とか本当に短い単語だけでどんどん出来あがってきて。
深田:専門家同士なら、もう複雑な言葉無しで意図が伝わっちゃうっていうことですかね。 小野川さんもフランスのミュージシャンと仕事をしていかがでしたか? 音楽は全部フランスで録音しましたよね。
小野川:そうなんです。日本でも曲を作ってたんですけど、フランスに前乗りして時間があったので、今回付いている音楽は9割くらいフランスで作りました。 結局フランスで全部曲を作り直したので、2週間前に渡した楽譜とは100%違う楽譜が当日に届く訳なんです。当然のようにミュージシャンにはブチ切れられてみんなブーブー言い出して(笑)。でもさすがにそこは「なめられちゃいかん」と思って、楽譜を叩きつけて「やれ!」って(笑)。
深田:え!? そんなことやりましたっけ?(笑) いや〜、でも演奏よかったですよね。曲も良かったですし。
小野川:そうなんです。すごい良い演奏だった。演奏能力が高い。聞いたらわかると思うんですが、そんなに動きのある難しい…覚えるのに大変な楽譜じゃないので、彼らがこれを「やれない」って言ったのは、絶対にわざとふっかけてきてると思ったから強く出たんです(笑)。
深田:自分は、フランス人の女性の編集アドバイザーに入ってもらって、日本にいる時から編集のプロジェクトを交換し合っているんですけど。フランス人スタッフの面白いところは、良くも悪くもあって。日本の技術者もレベルはすごく高いんですけど、どちらかというと監督が何をやりたいのかを尊重している方が多いのに対して、フランスのスタッフは「自分はこう思う、こうやったらよくなるはずだ」っていう意見を、その人の思想哲学ひっくるめてぶつけて来るんですよね。
例えば『淵に立つ』のラストシーンで、最後ああいう結末になるんですけど、そのフランス人スタッフはラストシーンをばっさり切って全く別のものに変えてきて(笑)。「私はあのラストは倫理的に、娘のいる母親として辛いので編集でカットする」って言ってきて、「いやいやいやいや」みたいな(笑)。「あの父親の行動が許せない」って。いやそれは許せないかもしれないけどああいう人はいるからって話をして2・3回押し問答をして。最後はもちろん認めてくれるんですけど、そんなやりとりはすごい刺激的でしたね。
根岸:それであんなに編集してたんですね(笑)。カラーグレーディングって本当は監督も一緒にいて見るんですけど、ほとんどいなかったですよね(笑)。
深田:別の部屋にいましたね。あと単純に、フランス人は日本映画の予算の少なさみたいなのにびっくりしたんじゃないかな。監督が自分でエンドクレジットを作ったりとか。冒頭シーンのメトロノームにカチッカチッっていう音に合わせてタイトルが出てくるの、あれ地味に面倒な作業なんですよ。フォトショップで全部文字バラバラにして、そういう作業をちまちまやっていたら、フランス人が「え、何でそれ監督がやってるの!?」みたいな感じでした(笑)。
質問1:ラストのことを先ほどちょっとおっしゃってましたけど、蘇生をする順番がなぜ奥さん・少年・娘なんですか? あの順番が納得いかないです。
深田:はい、全く同じことを先ほど出てきたフランスの編集の方に言われました(笑)。あれは脚本の段階だと、助ける順番っていうのは特に指定されてなかったんですね。とにかく古舘さん(利雄)がみんなをなんとか助けようとして右往左往しているっていうような表現になっていて。現場でリハーサルをしたら、古舘さんが自然と蛍じゃなくて孝司を先に助けたんですね。でもそれが、不自然なようで逆に僕はすごく人間らしいなと思ったんです。たぶん、「なぜ蛍じゃなくて孝司を先に助けたのか」っていうのは、おそらく利雄自身に聞いてみても理由は答えられないんじゃないかなと思います。でも考えることはできるなと思うんですね。
例えば、それこそ日本人的なものかもしれないけど、孝司というのは言わばよその子なわけだから、身内よりも他人の子を先に優先してしまったということかもしれない。あるいは、もしかしたら利雄は心のどこかで障害者である蛍よりも、健常者である孝司を優先してしまったのかもしれないという残酷な想像も可能だなと。そう思ったときに、僕は「ありだな」と。極限状態に追い込まれたら人間は思わぬことをしてしまう。古舘さんのとっさの芝居を信じようと思って、本番でもその順番でお願いしました。そういうのをひっくるめて僕は最後の芝居はすごくリアルにできたなと思っていますが、予想以上に女性の、お母さんたちの反感を買うという結果になりましたね(笑)。まあ仕方がないかなと思っています。
質問2:登場人物の感情表現、映像とか音楽とかも、非常に抑制されている印象を受けたのですが、監督の中にそういう意図はあったのでしょうか?
深田:基本的には受けとめたままに考えていただければ結構なんですけど。私としては、たぶん抑制されているのは脚本段階から始まる作業だと思うんです。さっきも少し話したんですが、100人の人が観たら100通りに分かれる、映画の中で完結しないでお客さんの想像力で完結するようにしたいと思っているので。こういう言い方をすると、時々「それは作り手として無責任なんじゃないか」ってお叱りを受けたりするんですけど(笑)。
ただ「映画の中で結末をつけること」が作り手の責任なのかということに関して、僕自身は違うと思うんですね。むしろ全力で、想像力に対して開かれたものにする。余白を作って、でもその余白の周りは緻密に描き込んでいくことをやりたいんです。だから抑制することもそういう理由で。感情を説明しているような芝居っていうのは僕にとっては下手な芝居になってしまうんです。私たちが現実で隣の人が何を考えているのかわからないのと同じレベルで、映画を観ている人が、物語の登場人物にも「いったい何を考えてるんだろう」と考えてもらいたいという気持ちがあります。
いきなり話が飛躍して、多少固い話になってしまうんですけど、私は映画の歴史はプロパガンダの歴史だと思っているんですね。音楽もだけど、映画も複製芸術であり、表現として強い力を持っているので、いわゆる1つのイメージ、1つのメッセージ、1つの感情で、何百人のお客さんを一気に巻き込む力を持っている。戦時中なんかは散々もっぱら政治的なプロパガンダに使われてきたわけです。だからこそ、そういう時代を経ていま現代に映画を作る以上、映画の持つプロパガンダ性みたいなものに、作り手はものすごく慎重にならなくてはいけないと思っていて。それは政治的なものだけじゃなくて、何について描いてもそうで。例えば今の日本で、家族というのは仲の良いのが当然であるとか、お父さん、お母さん、子供がいてというのが楽しい家族の形であるとか、そういったイメージが多くのドラマやCMを経て拡散されていく。僕はそれもプロパガンダだと思っていて。
それに対して距離を置くために、僕の中で見つけた方法が、映画の中で完結させないで、とにかくお客さんの想像力の中で広がるものにするということで。できれば鏡のように、映画を観ることでお客さん自身の考え方や思想哲学が、それこそ家族とは何だろうとか、そういう風にあぶりだされていくようになるといいなと思っています。それが結果的に抑制されたという表現になっているし、小野川さんに対する音楽のむちゃ振りにつながっていくっていう(笑)。だから(音楽の)付け所がないってふうになるのかなと思います。
根岸:人ってみんな抑制されて生きているんですよね。何にもない人っていないと思うんですよ。それがその人の感情や性格になる。撮影の時には、役者を撮るというか人間を撮るんですよ。やっぱり役者さんも人間なので、その時々で違ったりする。それをレンズを換えたり絞りとか光とかを変えて撮っていくんですけど、結局(その違いに合わせて)変えていくのも抑制なんですよね。撮影だって、脚本だって、もちろん監督だって、本当はもっと自由にやりたいかもしれない。でもその抑制されることによって何かがいろいろ生まれてくるんですよね。自分1人の世界じゃないものが。その生まれてくるものを想像しながら、画角を作っていくのが楽しい仕事です。
質問3:素晴らしい映画でした。映画というのは演劇を否定してるというか、そこから離れて成り立ったと思っていたんですが、深田監督の映画を観て、そういう考えが間違っているなと、見事に演劇を活かしているなと思いました。演劇的な要素をどういう風に昇華しているのでしょうか?
深田:ありがとうございます。映画と演劇とのかかわりというのは非常にねじくれていると思っていて、私自身も10代の頃から映画ばっかり観て、いわゆるシネフィルと呼ばれるような人種で、本当に演劇が大嫌いだったんですね。今断言するのも何なんですけど(笑)。
でも、23歳の時に俳優さんから誘われて初めて青年団の平田オリザさんの演劇を観て驚いたんです。なんて面白いんだって。すごいなと思ったのは、セリフが、私たちの日常の感覚に近いリアルさなんです。演劇の中で誰も自分の本音をむき出しにしないし、私たちがカフェや喫茶店や仕事場で話すかのような感覚で会話が成り立っていて、本音は想像することしかできない。これはすごい現実の感覚に近いと思って。でも考えてみれば、これって自分が好きなエリック・ロメールとか成瀬巳喜男とか、彼らだけでなく優れた監督がみんなやってきていることだなと思いました。それを、現代の私たちの日本語で、最も洗練された形でやっているのが、その当時、青年団であったと思いました。その頃に考えていたのは、エリック・ロメールを青年団の現代口語演劇の様式でできたら新しいハイブリッドになるのではないか、みたいな単純な思い込みで、本当に留学するような気持ちで青年団に入ったっていうのがひとつありますね。
あと、いわゆる映画至上主義という感覚とは逆のほうに行きたいという思いもありました。自分自身もそうですし、いわゆるシネフィルと呼ばれる人たちは、すごい狭くなってしまっている。分かる人にしか分からない感覚で観ているというのが嫌で、とにかくその逆に行きたいというのが、自分が映画監督としてやってきたことかなと思っています。